よく考えて!「日の丸・君が代」 
         いま、八王子では


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 君が代・日の丸は、当該者以外には「思想・信条の自由」に反すると言いがちですが、それ以上に同僚が権力により分断され精神的にも荒廃してしまいます。のちほど、教育基本法十条の解説もお読み願えればと存じますが、そこには「教育行政の教育内容への介入ができないことが明文化されています」。
                【電子化作業 野副 達司<for_nze01@ybb.ne.jp>】


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       よく考えて!「日の丸・君が代」いま、八王子では(11)

 在日韓国人のふたりのひとの「日の丸・君が代」との思いを二題。みなさんは、どう受け止められますか?
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「君が代」歌えません

 音楽の先生が不意に「宗教か何かで『君が代』歌えない人、手を挙げて」と聞いてきました。思わず周りを見てしまいました。みんなきょとんとしています。いっそう私はあせりました。手を挙げるか挙げないか頭のなかでぐるぐる回ります。ようやくの思いで私は言ってしまいました。

 「あのう、私、歌えません」

 これを聞いて数人の男子がざわめきましたとたんに私の心はぐらりとゆれました。

 私は韓国人なのに、なぜ日本で生まれたんだろう。それが知りたくて歴史の本を読んでいくと、そこには目をおおいたくなるような事実がたくさん書いてありました。

 一九一〇年、日韓併合が公表された時、「朝鮮全土は土地をたたいて泣き声に満ちたというのに、日本ではのき並み、日の丸が飾られて、花電車まで出たこと。村をおそった時、その証(あか)しに日の丸を張りつけていったこと。土地を奪われて、名前まで変えられて、その上、日本語しか使ってはいけないと強制されたこと。それらに胸がつまるようでした。

 それからの私は日の丸を見るたびに祖国の人たちは「何を思うだろう」と考えるようになりました。私は日の丸を見上げることがつらいのです。

 去年の卒業式の時、となりの友だちは「君が代」をどんな気持ちで歌っているんだろう、歴史をほんとうに知っているんだろうかと思いました。歌詞の意味を知ってしまった私は、とても「君が代」を歌うことはできないのです。

 横浜市港北区      金 佳林    小学校六年生・12歳

   朝日新聞、「ひととき」投書欄に掲載、1991年3月4日(東京版)
               【電子化作業 野副 達司<for-nze@din.or.jp>】
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  私が継承した日の丸の恐怖     崔善愛(チF ソンエ)

 七月一日(九九年)、衆議院の院内集会で、「日の丸・君が代」の法制化のことを、在日として話して欲しいとの依頼がありました。私は、一日、二日悩み、「勉強不足」を理由に一度お断りし、集会に参加だけさせて下さいと告げました(結局当日話ましたが)。

 これらのことについて、公の場で話すことには、命の危険を感じ、三歳と七歳の子どものことを思うと、胃のあたりが緊張したほどでした。戦争を知らない私が、何故このような恐れをいだくのか、考えてみました。

 指紋押捺拒否者に対し、最高裁で天皇の名の下に「恩赦」がでたことや、昨年四月に私自身の再入国不許可取消訴訟で棄却された時、最高裁の判決の中に、私は戦争はまだ終わっていないのだという実感を持ちました。

 私にとって「日の丸」の恐れは、四年前に亡くなった父が、死の直前に語ったその時のまなざしから来ているように思います。

 約三〇年前、あの金嬉老事件にかかわって以来、父は人権運動に身を投じ、日本における人種差別と戦う中で、最後に行きついた確信ともいえることが「天皇ヒロヒトの皇民教育による同化政策」でした。父は、自分自身の中にある日本人性を憎み、まるで許せないというようなまなざしを持ったまま、逝っていきました。それが、父の語った最後の姿でした。

 「日の丸・君が代」の下に日本人と多くのアジアの人々が、残酷に殺されていったことは、歴史に刻まれているのではなく、一人一人の体の中に、心の中に刻み込まれ、そのまま今も生き続けているのです。

 しかしながら、このところのマスメディアの世論調査での一つの共通点に、目を、耳を疑いました。「日の丸・君が代」法制化について、世代が上がるにつれて支持率が上がっているのです。戦争で愛する夫を、親を、兄弟を失った人々はきっと戦争を憎み、「日の丸」を憎み、再び戦争をおこしてはならないと念じているものと思っていました。そんな人々のほうが「日の丸」を国旗として必要であるというのは何なのでしょうか。私には不思議でなりません。

 天皇を拝み続けることが、戦死した人々の鎮魂であると信じるのでしょうか。それとも天皇にそむけば、命が奪われるという教育が、未だ体にしみついているためでしょうか。ある先生の「人は故郷を捨てることは出来るが、今まで受けてきた教育を捨てることは出来ない」という言葉を思い出します。私は世代と共に上がる支持率を見ながら、これは潜在する恐怖心の強さを表しているのではないかと思っています。

 被爆地長崎で、今も天皇の写真に向かって毎日手を合わせる老人がいると聞きました。かたや私の友人たちは、他のことでは問題意識が同じと思っていますが、天皇については「良い人じゃない??」とか、田舎の両親が元旦に皇居参賀のため上京する………などと何気なく私に話します。また他の友人の実家には皇族の写真集があったりします。私も小学校の時は、公立だったため、国旗掲揚、君が代斉唱がありました。あの頃は何も知らず、何の抵抗も感じませんでした。指紋や部落がそうであったように、それに込められた意図を知りませんでした。しかし何故それらを必要とするのかということを知った以上、もはやそれは私にとって全く違うものになりました。

 私は、留学中に始まった再入国不許可取消訴訟の第一回公判のため、インディアナから意見陳述を書き送りました。そしてそれを父が代読したのですが、私はその中で「私は日本を愛す。日本の自然は私を育ててくれた。私を愛することは日本を愛することだ」と書きました。このことを書くかどうか、随分抵抗があり悩みました。私が日本を愛すると言えば、父や母、そして教会の一世のおばあちゃんたちはさびしく思うだろうなと思いながら書きました。「日本人を愛してはいけない」と初めて韓国に行った小学生の時、親戚に言われましたが、私にとって日本人を愛さないということは、人を愛せないということを意味していました。

 父もまた、牧師でありながら隣人を、日本人を愛しなさいとは心から言えず、苦しんでいたように思います。

 父は「一九四五年八月一五日日本敗戦の時、ハングルで書けたのは崔昌華という名前と朝鮮独立万歳だけだった。大学で韓国語と韓国の歴史の勉強を始めたが、子どもの頃に受けた天皇制教育の上へのメッキにすぎなかった。人間が人間を怖がる教育をし、自分の人間性を奪ったのは天皇であり、自分の意識の中では、天皇は自分の死に直結している。天皇制のおそろしさをうえつけた日本人は、信頼できない。日本人は、最後の土壇場で、国家の利益を考えると思っている。でもその一方で、最後まで日本人を憎みきれないんだ」と話しています。

 八月九日午後一時、「日の丸・君が代を国旗・国歌とする」法制化が可決されました。私はまた法律を犯さなければならないのでしょうか。父が、在日にとっては今も日帝時代だと言っていたことを思い出します。在日にとって、アジアの人々にとって「日の丸」は恐怖であり、怒りであり、悲しみです。そして憎しみと恨みであることを加えなければなりません。このことは日本に生まれ、日本に生きている私にとってまた辛いことです。

 「指紋押捺制度廃止」も私の画期的な永住権の原状回復も「日の丸・君が代」の前に立つと虚しい気がします。しかし、これらのことで最も迷惑しているのは天皇自身かもしれません。誰がみても人として自然に発言できず、神として崇められたり、象徴であり続けることは、相当大変なことだと思います。天皇制から解放されたいと願っているのは天皇とその家族自身かもしれません。

 今日、被爆者は、アメリカを憎むとは言わず、核戦争を憎み、繰り返さないことを訴えています。私も日本人を憎むとは思いたくないので、戦争を憎むと言います。

 人は人の持つ弱さを知り、同じ弱さを持つ者として、それを繰り返さないという時、もう許し合っているよというメッセージが込められているように思います。しかし、アメリカの原爆を落としたその人たちは、「あれは正しかった。原爆を落とさなければもっと多くの人が亡くなっただろう」と話すのです。また、原爆をかたどったピアスが最も売れていると新聞で読みました。すれ違う人の思いをみるとき、彼らは傷を受けた人々に真に出会っていないのだと言うことです。そして出会うことを求める心もなく、あるのは自分を守ることだけなのです。

 父が亡くなり、私が今、ひしと気づくことは、私は父のことを余りにも知らないということです。先日、朝日新聞社主催の「写真が語る二〇世紀目撃者」を見ました。朝鮮戦争で北を追われ、必死に南へと逃げる人々が、鉄橋に上から下からしがみつき、渡る姿を一枚の写真の中に見た時、涙が止まりませんでした。父がその中にいるようで、父に出会ったような気がしました。自分の父の歴史を本当には知らない私が、日本と韓国の歴史認識が……なんて言えるでしょうか。怠惰な自分を嘆き、自分の父と母の生きた歴史をどうしてもっと知ろうとしなかったのかと思うのです。

 私は「戦争の止め方」を知りません。学校で学ぶこともなかったのです。いえ、知識としてあった教科書から、それが見えてこなかったように思います。今、戦争をくい止めることが果たしてできるだろうかと、緊張しています。私がかねてより持っていた疑問は、どうして皆戦争を止められなかったのだろうということです。日本が戦争になった時、私は、日の丸の旗を持たず、君が代を歌わず、命を守ることが出来るのでしょうか。崔善愛という名を持ちながら子どもたちの命を守ることができるでしようか。

 私は民族の誇りなんて分からないし、いらないと思っています。ただ、父と母からうばわれた誇りを取り戻したいと願っているだけなのです。

 私はこれまで天皇制のことを背中で感じていたけれど、それを触らないよう見ないようにしていたのだと気づき、実はどこかでこのことについて必ずゆきつくだろうことを知っていたように思います。

 人が死ぬ時、必要なものは何でしょう。おそらく自らの生の意味を総括しようとするでしょう。誰よりも多く、大きな良いことをし、精いっぱい生きた、これでよかったのだと肯定しなければ死を受け入れる準備はできないかもしれません。そして、その人生は、自分のためではなく、他者のため、何かのために力を尽くし、果てるとすれば、余りにも悲しく暗い死を迎え入れる支えが出来るに違いありません。そして、残された者たちは、逝っていった人の肉体に触れるこができないからこそ、その人の精神と思われるものを継承したいと思い始めるのでしょう。

 事故でも病気でもなく、戦争によって死ななければならなかった人は、自分を納得させる何かが必要であったはずです。それが、神、正義、民族、真理、天皇であったのでしょう。そして、戦死した者から継承すべきものは、天皇であると、戦後五〇年余り経た今、日本は確認し合ったのでしょうか。歴史は繰り返すのではなく、確かに私たちが繰り返しているのです。 

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