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よく考えて!「日の丸・君が代」 
いま、八王子では
      
君が代・日の丸は、当該者以外には「思想・信条の自由」に反すると言いがちですが、それ以上に同僚が権力により分断され精神的にも荒廃してしまいます。のちほど、教育基本法十条の解説もお読み願えればと存じますが、そこには「教育行政の教育内容への介入ができないことが明文化されています」。
【電子化作業 野副 達司<for_nze01@ybb.ne.jp>】
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よく考えて!「日の丸・君が代」いま、八王子では(7)
教育基本法十条は教育の地方分権を高く謳っています。これは、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦に到った帝国日本の教育の失敗から学んだものです。資料のひとつとして、日本国憲法を教育の場で裏打ちするものとしての、教育基本法わずか全11条のうちのものです。この論文は、70年代の家永三郎・教科書検定裁判の法的検討を開始した「教育法学」成立直後の成果のひとつといえます。
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教育基本法第十条【教育行政】・解説
一 本条の立法者意思
二 教育と教育行政との分離
三 禁じられる「不当な支配」は何か
(1) 法律の根拠に基づく教育行政の教育支配は
正当かつ適法であるという行政解釈
(2) 教育行政による法的拘束力をもつ教育支配こそが
「不当な支配」に当たるという教育法学の通説
四 直接的教育責任の意義
五 学校教員に保障される「教育権の独立」とその内容
(1) 本条による学校教員の「教育権の独立」の法定
(2) 学校教員の教育権の独立の保障内容
六 教育行政の条件整備的性格と教育内容行政のあり方
(1) 教育の外的条件(外的事項)を整備する教育行政
(2) 教育の内容面(内的事項)にかんする教育行政
〔教育行政〕
第一〇条
[1] 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行
われるべきものである。
[2] 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備
確立を目標として行われなければならない。
一 本条の立法者意思
一九四六(昭和二一)年七月三日の第九〇帝国議会衆議院憲法改正委員会において、田中耕太郎文相が目下「教育根本法」案を検討中であると答弁した際に、そこに「教育権の独立」をもりこむことが示唆された。そして同年一一月二九日に教育刷新委員会に出された「教育基本法案要綱」では、「十 教育行政は、学問の自由と教育の自主性とを尊重し、教育の目的遂行に必要な要条件の整備確立を目標として行われなければならない」とされた。しかしその後の過程で、「教育の自主性」という言葉は「ややもすれば教育者の独断という観念とあやまられやすいので、除かれるに至」り(辻田力監修・教育基本法の解説一二九頁)、かわって「教育は、不当な支配に服することなく……」という表現がとられることになった。しかしいぜんとして、戦前における教育行政にる教育支配をきびしく反省しこれを主に禁ずる意味をこめて「不当な支配」の禁止が書かれたことは、事実である。
一九四七(昭和二二)年三月一四日の第九二帝国議会衆議院教育基本法案委員会において辻田政府委員がその点をこう答弁している。
「従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的干渉によって教育の内容が随分ゆがめられたことのあることは申しあげるまでもない。そこで……一般に不当な支配に教育が服してはならないのでありまして、ここでは教育権の独立、……その精神を表わしたものであります」。
さらに翌一九四八年三月に出版された田中耕太郎元文相の著書「新憲法と文化」に明記されたところによれば、「教育権の独立の原則は、それが不当な政治的及び行政的干渉の圏外におかれるべきことを意味する。従来の我国における教育は或は政治的に或は行政的に不当な干渉の下に坤吟し、教育者はその結果卑屈になり、教育全体が萎微し歪曲せられ、その結果軍国主義及び極端な国家主義の跳梁を招来するにいたったのである」(一〇一頁)「官公吏たる教員と雄も、……上級下級に編入せらるべきものではない。……かような趣旨からして教育基本法第十条は、教育行政の根本方針を規定している。教育は一方不当な行政的権力的支配に服せしめられるべきではなく(同条一項前段)。それは教育者自身が不覇独立の精神を以て自主的に遂行せらるべきものである」(一〇四頁)。
二 教育と教育行政との分離
戦前教育法制にあっては、学校の教育活動は天皇の教育大権を末端で執行する作用で、それ自体も権力的な教育行政の性質を有していた。これにたいして本条は、全体として「教育行政」という見出しをつけながら、一項で「教育」を、二項で「教育行政」を、それぞれ主体とする規定を書きわけている。この「教育」は、学校教諭の児童生徒教育(学教二八「)だけでなく、社会教育・家庭教育をふくみ、それは専門性と人格性をともなう人間活動として非権力作用であり、教育行政機関による教育行政とは分離して、教育界において第一次的に重要な働きであるととらえなければならない。そして本条二項が明示するとおり、教育行政は、教育にたいしてそれが花咲けるように「条件整備」していく働きとして、やはり重要な任務をになっているのである。
もっとも、右を前提として、本条一項の教育に、つぎの意味でなら、教育行政をふくめた教育体制のあり方がこめられていると解してよい。一九四八年七月につくられた旧「教育委員会法」一条によれば、「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに公正な民意により、地方の実情に即した教育を行なうために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする」。がんらい本条一項は公選制教育委員会の制度を予定していたという見方が有力である(宗像誠也編・教育基本法二八○頁。ほぼ同旨、有倉遼吉=天城勲・教育関係法一三一頁〔有倉〕)。たしかに、公選制教委による地方自治的教育行政の体制は、教育を中央政治・行政の支配から守り国民により身近かなものとするしくみとして、重視されなければならない。それとともに、本条一項は、与党政治に不当に支配されない教育行政体制(教育行政の政治的中立)をも予定していると解される。諸外国ではそれぞれにこの点に配慮したしくみをととのえているのであって、わが国現行の「党人文相」体制には問題があといわなければならない(宗像「文部大臣論」世界一九五八年二月号参照)。
三 禁じられる「不当な支配」は何か
本条一項の根本趣旨を「教育の政治的中立性」の確保に見て、禁ぜられる「不当な支配」の主体はひろく政治的・社会的勢力一般であって、政党・労働組合・財界・宗派・マスコミ・一部父兄などのほか教育行政・学校管理者がふくまれる、という理解がなされている(有倉=天城・前掲一二七〜九頁など)。それ自体は正当であるが、各主体による教育関与は多種にわたるので、教育関与のしかたを押えないで、「不当な支配」の主体論だけを切りはなして行なうことは、法的にあまり意味がないと思われる。そしてこの場合、教育行政による教育関与は、制度的・恒常的なものとなるその性質からして、他の主体による教育関与とは別個に、本条の解釈適用上とくに重視して論ぜられるに値いするのである。しかもこの点にかんする本条解釈の対立状況は、つぎのように大別される。
(1) 法律の根拠に基づく教育行政の教育支配は
正当かつ適法であるという行政解釈
文部省当局者の解釈によると、「国民に主権を与え、国全体に責任を負う民主主義の政治体制をとる限り、国会において立法上記められた範囲内における行政上の支配は第十条が不当な支配であると否定しているものではないであろう。むしろ、教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような、政党・組合などによる独善的な支配であると考えられる」(文部省地方課法令研究会・新学校管理読本四九頁)。この行政解釈を全面的に肯認する判例はごく少数であるが、その一例(盛岡地判昭和四一・七・二二判時四六二号一一頁)はつぎのように敷衍している。「教育について、法制的根拠をもつ行政的支配は、正当なものといわなければならない。けだし、国民の一般的教育意思は、国会に代表され、政府の定める国家基準により実現されるのであって、……教育行政上の管理に服することが国民に責任を負うゆえんだからである」。
(2) 教育行政による法的拘束力をもつ教育支配こそが
「不当な支配」に当たるという教育法学の通説
本条の法学的研究は一九六〇年代に「教育法学」によって遂行され、その結果こんにちでは、つぎのような教育法学界の通説が形成されている。本条が教育への不当な支配を禁ずるのは、教育活動の完全な自主性を保障するためである。したがって、政治的・社会的勢力が教育支配をすることはすべてよろしくないが、とりわけ教育行政が法的拘束力をもって教育活動をしばることは、定型的に「不当な支配」に当たるといわなければならない(田中耕太郎・教育基本法の理論八六二〜八七〇頁、宗像・教育と教育政策〔岩波新書〕七八〜八一頁、相良惟一・教育法規六五〜八頁、有倉=天城・前掲一三二〜三頁、堀尾輝久・現代教育の思想と構造三三五〜六頁、兼子仁・教育法一二六〜七頁など)。この教育法学説は、本条の立法者意思に沿い、また教育という事柄の性質にもとづく「教育条理」にそくした解釈として、一九六四年いらい全国学力テスト事件および教科書裁判の有力な判例において肯認されてきている(福岡地小倉支判昭和三九・三・一六判時三八三号九頁、大阪地判昭和四一・四・一三判時四五三号六頁、旭川地判昭和四一・五・二五判時同号一六頁、札幌高判昭和四三・六・二六判時五二四号二五頁、大阪地判昭和四七・五・二二、教科書裁判の東京地判昭和四五・七・一七判時五九七号三頁)。
これら両説のいずれが本条の正しい解釈であるかは、憲法の教育条項(二三・二六条など)の精神に沿って決められるべきであるが、憲法の教育条項にも解釈の余地があり(弟子仁「憲法二三条・二六条および教育基本法一〇条の体系的解釈」憲法と教育〔法時臨増〕所収参照)、結局いずれが教育条理(教育にかんす条理)にマッチするかによって決するほかないであろう。
教育活動が自主性を保障されるべきなのは、「自由な教師にしか自由への教育はできない」という教育者の人間的主体性の必要と、ひとりひとりの子どもをはじめ被教育者の発達の法則にそくした真に専門性の高い教育を行なうために、現場教師の自律的な人間活動が不可欠であること、とに基づく(後者につき、堀尾・前掲二三六〜七頁参照)。他方、議会民主制はたしかに国民代表制ではあるが同時に政治的多数決のしくみであるから、国民の意思は何でもそれで決めるのがよいとはいえず、とくに教育の内容は、教育の外的条件たる財政・学校制度などとはちがい、むしろ思想・宗教などと同じ精神文化の問題として、議会多数決で決めるのにふさわしくない。正しい教育の内容は、法律にもられたところが国民の教育意思であるはずだという議会制の擬制によってではなく、教育の自由をもつ国民個人の真意が学校その他教育機関に直接に向けられ、それを教師が自主的にうけとめていくというしかたで、決められていくべきものである。そして分教育内容の組織化も、性急に法的拘束力ある行政のルートによってではなく、教育界における文化的ルートを駆して徐々になされていく場合にのみ本格的なものになる。かりに学校教師に全幅の信頼をおかない人でも、法的拘束力をもつ教育行政による教育支配をみとめることは、教育行政機関に全幅の信頼をおかないかぎりできにくいことなのである(兼子・国民の教育権〔岩波新書〕一四五頁以下参考)。このようにして、やはり教育法学界の通説が、教育条理を見きわめた正しい解釈をとっていることが判明する。
なお、一九五四年の制定にかかるいわわゆる中立確保法一条が「この法律は、……義務教育諸学校における教育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守り、もって義務教育の政治的中立を確保するとともに、これに従事する教育職員の自主性を擁護することを目的とする」と書いているが、そのゆえに教育行政が教育を支配することはさしつかえないと言うことは不条理である。法的拘束力ある教育行政の教育支配こそはむしろ定型的に教育の自主性をそこない、教育を与党政治の支配下におくことすら可能にするものだからである。
四 直接的教育責任の意義
さきの両説は、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行わるべきものである」という本条一項後段の解釈においても対立する。行政解釈は「直接に」の語を軽視し、公立学校の教員も一般の行政公務員と同じく議会を通して国民・住民へ責任を負うべきものであるという間接的行政責任を考えるが、教育法学の通説的解釈によれば、「教育者は官庁組織を通じて国民に間接に責任を負うのではなく」(田中耕太郎・新憲法と文化一〇四頁)、各学校の教師が父母・子どもをはじめ国民の教育要求に直接にその自主的教育活動をもって応えていくという「直接的教育責任」でなければならない。本条一項後段は、公選制教育委員会という住民自治的な教育行政体制の予定をふくんでいるとともに、基本的には各学校の教師と国民との直接的なむすびつきを要請しているのであって、この意味からPTAのしくみが評価されてよいであろう(宮原誠一・PTA入門二一三〜四頁参照)。なお近年の西独のラント法において、この学校教員の「直接的教育責任」(unmittelbare paedagogische Verantwortung)が法定される傾向にある事実(一九五八年ノルトライン・ウェストファーレン州学校行政法一四。、六四年バーデン・ヴェルテムベルク州学校行政法二二、六六年バイエルン州国民学校法三八氈jが、注目に値いしょう。
五 学校教員に保障される「教育権の独立」とその内容
(1) 本条による学校教員の「教育権の独立」の法定
教育法学の通説的解釈によれば、本条は、教育にたいする「不当な支配」の禁止と直接的教育責任という定め方によって、学校教員の「教育権の独立」を保障していることになる。このように学校の教師の教育活動が教育行政にたいして自主独立性を保障されるべきことを法律の条文で明記する例が諸外国にひろく見られるということは、実はない。しかしそれは、そのような保障は教育界の実際において自然になされていてとくに法定する必要がないからであると見られる。現に一九六六年のILO・ユネスコ共同会議にもづく「教員の地位に関する勧告」の六一項では、「教員は職務の遂行にあたりアカデミック・フリーダムを享有すべきである。教員は、生徒に最も適した教材および教育方法を判断するため格別に資格を与えられたものであるから、承認された課程の大綱の範囲で教育行政当局の援助のもとで、教材の選択と採用、教科書の選定、教育方法の採用などにについて主要な役割を与えられるべきである」と定めているのである。
本条一項が教育権の独立を法定したのは、戦前における教育行政による教育支配の経験に照らし、わが国ではとくにその現実的必要があると見たからであるが、現在なおその必要は遺憾ながら減じていない。
ちなみに、戦後いらいわが国と教育行政の実情に近いところをもってきたドイツでは、一九六〇年代に入ってから西独の五つのラントで、「学校教員の教育権の独立」
(paedagogische Freiheit des Lehrers)を法定する傾向を見せている(一九六一年ヘッセン州学校行政法四五、六五年ザールラント州学校制度法三七条、および直接的教育責任を書く前記の三州法)。これらはまさに本条に相当する立法であるが、それが一九五七年にはじまる「学校法学」からの立法提唱が結実したものである点においても注目されてよいであろう(Hans Heckel=P.Seipp,Schulrechtsskunde,Luchterhand,1 Aufl.1957,SS.135,214-4.兼子「西ドイツにおける教師の教育権の独立」季教四号所収参照)。
ところで西独ラント法上のこの「教育権の独立」は、大学教官に憲法上保障されてきた「教授の自由」(Lehrfreiheit)とは別物で、むしろ「子どもの教育をうける権利」
(Recht des Kindes auf Bildung)に連る面のあることがのべられている(Vgl,H.U.Evers,Verwaltung und Schule VVDStRL.Heft23,1966,SS.181,183)この点わが国の教育法学界では論争があり、本条における学校教員の教育上の自主独立性が、日本国憲法二六条の教育をうける権利の保障の具体化であると解する説にたいして、それは大学教授の場合と同じく憲法二三条の学問の自由にふくまれる「教育の自由」にほかならないという批判がなされている(有倉「国民の教育権と国家の教育権」季教一号所収参照)。
(2) 学校教員の教育権の独立の保障内容
これは、法的拘束力をもつ教育行政の教育支配が禁じられるのと表裏の関係にあり、学校教員は、その教育活動については、教育行政から具体的立法や職務命令をうけないという保障を有するのである。かように法的に独立な教育の権限は、教師の「教育権」とよばれうるであろう。そこで、校長が教員に週案や補助教材の提出を命じたりすることは、教員の教育権の独立を侵害し本条一項違反であると解される(学教二八。や二一などの規定は、本条の原理に適合するように条理解釈されなくてはならない)。
全国学力テストの実施命令が、教員の成績評価権・教育権を侵して違法でないかどうかについては、判例は分かれている。もっともほとんどすべての判例が、なんらかの範囲における教育権の独立、教育の自由・独立を前提としてみとめていることが読みとれるのであるが、一部の判例は、教育行政が「すみずみまで教育活動の分野に立入り命令監督することを避けなければならない」という程度の条理的限界を設けるにすぎない結果、学力テスト実施命令を適法と判示している(熊本地判昭和三七・九・一四下級刑集四巻九=一〇号八六四夏、仙台高判昭和四四・二・一九判時五四八号四六頁)。しかし教育活動が完全な自主性を現実に保障されるためには、それ相当に学校における教育権の独立がひろく解される必要があるといわなけれぱならない。そこで、ひろく各学校に教育課程編成権をふくむ教育自治権をみとめた判例は、学力テストの実施強制はそれを侵して違法であったと判定することになっている(大阪地判昭和四七・五・二二、札幌高判昭和四三・六・二六判時五二四号二七頁など)。
こんにちの公教育は、学校を単位として集団的計画的に行なわれていくことによって、子どもの教育をうける権利・学習権(真に能力発達に役立つ学習をしていく権利)を実現するものであるから、学校全体としての教育自治つまり学校教員集団の教育権の独立が保障されなくてはならない。そこで教育課程・教育計画や生徒の進級卒業・処分の決定など全校的教育活動については、職員会議が教育条理上当然に議決機関であり、校長はその審議に加わるとともに議決を対外的に表示していく立場に立つものと解される。これも本条一項に内在する教育条理的要請である。
なお、校長など学校管理者から教育活動について命令監督をうけないという本条一項の保障は、条理上当然に、私立学校の教員にも及ぶものと解される(同旨、目黒高校事件の東京地判昭和四七・三・三一判時六六四号二三頁)。こんにちでは私立学校も「公の性質」をもち(教基六I)、そこでの教育はやはり公教育活動にほかならないからである。
六 教育行政の条件整備的性格と教育内容行政のあり方
本条のもとにおける教育行政は、教育法学説の究明によれば、もはや戦前におけるごとく学校教育を吸収してその内容決定を行なう権限をもたない。教育行政は、本条二項の文字どおり「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」のである。憲法二六条が国民に教育をうける権利を保障したことに対応するものは、教育権者の自主独立性と教育責任でもあるが、憲法上第一次的には、国の教育条件整備義務であると解され(くわしくは、兼子・前掲憲法と教育〔法時臨増〕二〇二頁以下)、本条二項はそれを教育行政の務として明記したことになる。そこでこんにちの教育行政のあり方は、この条件整備的性格にそくして見きわめられなくてはならない。
(1) 教育の外的条件(外的事項)を整備する教育行政
条件整備をモットーとする教育行政にとって第一次的に重要なのは、教育の内容面に関与することではなく、教育の外的条件をよく整えていくことであろう。これは脇役に見えるが公教育の現実の発展にとって決定的な働きであり、教育行政に豊かな文化的体質と水準がなければ十分に行なわれないことなのである。それとともにこの外的教育行政にたいしても、父母国民や教師の参加権が保障されていくべきものであろう。
「教育条件」は、学校教育の場合、子どもの就学条件と教職員の勤務条件とから成る。教育財政がその両方を整備するのに重要であることはいうまでもない。
(イ)就学条件の整備としては、
(a) 義務教育の無償(憲二六)をはじめ公・私立学校における教育費
の公費負担化、
(b) 子どもの教育をうける権利・能力発達を真に保障するような学校制
度の設営(憲二六I、数基三)、
(C) 子どもの通学条件を保障する学校の適正配置、
(d) 学校の施設・設備の拡充、
などがある。
この面でのわが国の教育行政は、これからの課題を多くのこしており、財政的う
らづけの不備ともかかわるが、最低保障基準を法的に設定していくという働きが
十分でないと見られる。
(ロ)教職員の勤務条件の整備としては、
(a) 給与の拡充(数基六。研修費をふくむ)、
(b) 勤務時間制の合理的明確化(休息時間の保障、時間短縮、諸外国なみ
に授業時間のみの学校拘束制にしていくことをふくめて)、
(C) 教職員定数の増加、
(d) 教職員の職種と職務内容の合理的設定、
(e) 教職員の身分保障(数基六。転任にかんする保障をふくむ)、
などがある。
教職員の勤務条件が劣悪であっては良い教育は期待できないのであるから、教職員の勤務条件は労働条件であるとともに、子どもの教育が良く行なわれるための条件すなわち教育条件の重要な一部をなすわけである。
(2) 教育の内容面(内的事項)にかんする教育行政
教育の内容・方法はまさに教育の自由にもっぱらゆだねられる事柄で、教育行政の条件整備義務の対象にはなりえないという解釈がある(有倉「憲法と教育」公法研究三号一五〜六頁)。しかし、条件整備的行政は教育を支配するものではありえず、こんにちの公教育にあっては、教育の自主性を尊重しながらその専門性を高めていくための条件整備行政が、教育の内容面についても必要視されうるのではなかろうか。このような教育内容行政は、しかし当然そのあり方が、真に条件整備の形態と範囲を守るべきものとして、問題になろう。
(イ)教育の専門性を高める第一次的手だては、教員の自主的な研修(教育研究)であり、教育行政はその機会保障を十分にする必要がある(教公特一九・二〇の解説参照)。教育行政機関が計画する行政研修は、補充的・指導助言的な範囲にとどまらなければ、本条に反する。
(ロ)教育者の専門性を高める手助けをする行政として、「指導助言」がある。教育活動にたいする指導助言権は、現行教育法規によって、指導主事・社会教育主事および文部省にみとめられているが(地数行一九。、社教九の三I、文部省設置五I 18)、校長・教頭にもその教育内容面での権限として解釈上みとめられよう(学教二八。、学教則二二の二。)。この指導助言権は、指揮監督権と排他的で法的拘束力をもたないが、指導助言が教育専門的に真にすぐれた内容のものであれば教育界において現実に法的拘束力がある以上に効果をあげうるということを、法規が予定して教育法独特な権限として定めているものである。諸外国の実績に照らして見ても、国が真に優秀な指導助言権者の養成と配置と処遇に努めていれば、指導塾言行政こそが有力な教育内容行政たりうるのである(兼子・国民の教育権一八五頁以下参照)。指導助言力の弱い教育行政が法的拘束力ある権限をのぞみやすい、という事実に注意しなければならない。
(ハ)教育課程の国家基準の問題
行政解釈は、教育の内的・外的事項の区別をみとめず、教育内容面も教育の条件として教育行政の決定対象になるのだとしている(昭和四五・八・七文部省初中局長通知〔教科書検定訴訟の第一審判決について〕)。しかし、前記のとおり、教育内容を法的拘束力をもって行政が決定することは、まさに本条一項の禁ずるところと解するのが正しく、したがって、教育課程の内容にかんする国の「基準」としての学習指導要領(学教則二五・五四の二・五七の二)も、法的拘束力ある法規ではありえず、教育官庁が公示した勧告的基準としての指導助言文書にほかならない。その実効性は、その内容の教育専門的水準にもとづく指導力にゆだねられるべきであって、それを法規として教科書検定基準にすえたり、それに準拠して全国学力テストを強制実施したりすべき性質のものではない。もっとも、現行の公教育法制において教育内容・教育課程について国の基準がまったくありえないではないが(学校教育法二〇・三八・四三条は、「教科に関する事項」は監督庁=文部大臣が定めると規定している)、立法が可能なのは、学校制度の一環となる教育課程の制度的条件をなす事項(いわゆる大綱的基準)に限られ、教科教育の内容については指導助言的基準づくりのみがみとめられると解すべきであろう。そのような大綱的基準は、教育基本法・学校教育法が規定する一般的・各学校段階の教育目的のほか、現行の学校教育法施行規則(文部省令)が定めている、教科目名、小・中学校の標準授業時数、高等学校の卒業に必要な総単位数、の程度がそれであると見るのが、条件整備的教育行政にふさわしいであろう。
〔兼子 仁〕
出所:有倉遼吉編、教育法、別冊法学セミナー基本法コンメンタール12、
日本評論社、1972年、76-81頁。
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