よく考えて!「日の丸・君が代」 
         いま、八王子では


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 君が代・日の丸は、当該者以外には「思想・信条の自由」に反すると言いがちですが、それ以上に同僚が権力により分断され精神的にも荒廃してしまいます。のちほど、教育基本法十条の解説もお読み願えればと存じますが、そこには「教育行政の教育内容への介入ができないことが明文化されています」。
                 【電子化作業 野副 達司<for_nze01@ybb.ne.jp>】


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       よく考えて!「日の丸・君が代」いま、八王子では(8)

文部省廃止論は、今は亡き羽仁五郎のものが知られていますが、敗戦直後には多くの文部省廃止論、〜縮小論等々が論議されたようです。その一端に触れた文部省設置法略史を資料のひとつとしてお届けします。防衛問題を論じるにも防衛庁設置法等を今一度検討しておくにもわるくはないでしょう。
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          季刊教育法110号/総特集●教育基本法50年



 文部省設置法      前田 早苗(大学基準協会)

 1 法律制定の背景、趣旨、目的
 2 法律制定の経過と問題点、論争点、国会における論議
 3 制定時の文部省設置法の特質
 4 施行後の主な改正について
   (1) 一九五二年の改正
   (2) 一九八三年の改正
 5 問題点と今後の課題

 文部省設置法は、一九四九(昭和二四)年五月三一日に制定され、翌六月一日施行された。主要関連法令としては、国家行政組織法(一九四八・七・一〇)、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(一九五六・六・三〇)、文部省組織令(一九八四・六・二八)等がある。

 文部省設置法の改正は、他の法律の制定・改正に伴うものが多く、これまで七二回もの改正が行われている(一九九二年六月二六日法律第八八号まで)。このうち、文部省設置法の単独改正は、一七回である。主な改正としては、機構の簡素化を目的として中央各省庁で実施された一九五二(昭和二七)年の改正と、国家行政組織法の改正に伴って実施された一九八三年(昭和五八)年の改正があげられる。


1 法律制定の背景、趣旨、目的

 文部省設置法は、行政組織は法律で定めるという法定主義原則によって制定された国家行政組織法にその根拠をおいている。この点は、各省設置法と同様である(戦前、文部省の存立の根拠は、勅令である文部省官制に拠っていた)。

 しかし、敗戦後、文部省を巡っては、存廃にかかわる種々の案が出された。その主なものをみてみると、まず、第一次米国教育使節団報告書(一九四六・三・二六)があげられる。この報告書は、「文部省は、日本の精神界を支配した人々の、権力の中心であった」として、この官庁の権力の悪用を防ぐために、その行政的管理権の削減を提案した。具体的には、
 1 カリキュラム、教授法、教材及び人事に関する管理権の、都道府県及び地方学校行
   政単位への移管、

 2 視学官制度の廃止、

 3 統治的・行政的権力をもたない、感激と指導を供与する、相談役と有能なる専門的助
   言者の制度の設置、

 4 文部省の内務省からの絶縁、をあげ、それまでの中央集権を批判し、教育行 政を地
   方に移管することを提言した。

 一方国内では、主に、内閣の諮問機関である教育刷新委員会(一九四六年八月設置)において、文部省の廃止・改組を含んだ検討がなされた。教育刷新委員会においては、

 l 従来の官僚的画一主義と形式主義との是正、
 2 教育における公正な民意の尊重、
 3 教育の自主性の確保と教育行政の地方分権等を方針として、

三回にわたり建議を提出し、大臣の諮問機関として中央教育委員会を設置すること(第一回建議一九四六・一二・二七)、文化省を設置し、文部省をこれに統合すること(第九回建議一九四七・一二・二七)、さらに、文部省を廃止し学芸省を設置すること(第一二回建議一九四八・二・六)を提案した(2)。このほか、各政党による文部省改組・廃止が提案されたり(3)、行政調査部等による文部省改革案の検討が行われた。

 しかし、文部省を廃止し、中央教育委員会を設置する試案が具体的に検討される過程で、文部省廃止から、存置・機構改革へと収斂されていき(4)、結局文部省は、以下にみるように廃止されることも改称されることもなく存続することとなった。

 文部省が廃止されなかった理由として、

1 前述の使節団報告書が、文部省内部の機構と機能の変化を示唆したのみで、文部省の廃
  止を前提としていなかったこと(5)、

2 教職員組合が総司令部に対して文部省を存続するよう繰り返し陳情を行っこと(6)、
  等があげられる。

 なお、使節団報告書が指摘している文部省の管理権の地方への移譲については、文部省設置法に先だって制定さた教育委員会法(一九四八年七月一五日)によって、教育行政は一般行政から独立した、教育委員会の手に委ねられることとなった。その後一九五六年には教育委員会法にかえて「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が施行されることとなった。その詳細は、同法の項を参照されたい。

2 法律制定の経過と問題点、論争点、国会における論議

 文部省設置法の趣旨・目的は、当時の文部大臣によってなされた同法案の提案
理由説明によると、

 1 政府の行政機構刷新の方針に即応して文部省の機構を簡素化する、
 2 戦後の教育の民主化を推進するにふさわしい中央行政機構を設けることにあった。そして何よりも「文部省の機構改革の根本方針は、従来の中央集権的監督行政的の色彩を一新いたしまして、教育、学術、文化のあらゆる面について指導助言を与え、またこれを助長育成する機関たらしめるという点にある」(7)として、中央集権的監督行政機関から指導助言・助長育成機関へと文部省の性格変更がなされたことが明言された。同法案が提出された第五国会衆議院内閣委員会・文部委員会連合審査会並びに同参議院内閣・文部連合委員会において、同法案の趣旨は概ね肯定的に迎えられた。

 その中での主な質疑応答を紹介すると、戦後から数年間にかけての文部省の機構改革の動きが浮き彫りになってくる。文部省無用論・廃止論について政府当局がいかに考えているかという質疑に対して、高瀬文相は、文部省無用論や廃止論は、「非常に外面的な皮相な見解」であり、「たとい地方に教育委員会ができまして一面において教育のディセントラリゼーションが実行され、大学におきまして民主的運営の方法として自治組織ができるといたしましても、やはりわが国全体の教育を育成して行く、またそれについて必要な助言を与えて行くというような立場から、文部省というものはどうしても必要がある」(8)として、地方教育行政が地方教育委員会の責任において遂行され、将来的に大学についても地方分権化がおこなわれようとも、文部省が育成・助言のための機関として必要不可欠であることを強調していた。

 また、設置法案にうたわれた「民主化」については、どれだけ民主化されたかの質問に対して、伊藤文部事務次官が、「(設置法)全体の趣旨を(中略)監督、取締りという点を脱却いたしまして、助長、指導という面に強力な線を引いて立案いたしておるのであります。(中略)文部省が許可、認可をいたしまする事項は非常に整理されて参りましたが、しかしなお多少どうしても残る部分がありまするので、これを管理局という一局にまとめてしまった」、「将来ともできるだけ文部省の認許可を地方に移譲してしまうという建前をとって参りたい」(9)として、許認可という権力をともなう権限行為を極力減らすとともに管理局一局にまとめるという考え方をとったと説明していた。

 教科書の検定が設置法に規定されていることに関する質問に対しては、高瀬文相が「義務教育の教科書は、むろんやはりある教科書としての標準が必要だろうと思います。その検定を文部省がやるということになっておりますが、これは現在非常に紙等の資材が不足しておりまして、そんなことから文部省が特にやっておるわけでありまして、将来の方針としては教育委員会がやるという方針で進んでおります」(10)と答弁し、資材不足から文部省が検定するのであって、将来的には教育委員会に検定権が移ることを予定していたことがうかがえる(11)。

 さらに、第五回国会参議院内閣・文部連合委員会では、中央教育委員会設置に関する質疑に対しては、森田孝政府委員(文部省大臣官房文書課長)が、「中央教育委員会というのは、教育刷新委員会の意見の中に確かあったと心得ておりますが、文部省におきまして今具体的に中央教育委員会の設置、或いは又従ってその構想等につきましては考えておらない」(12)と、質問者(岩間正男)の言葉を借りれば「あっさり」答弁している。

 森田は、『文部時報』(一九四九年八月)で、文部省は「命令機関でなくサービス機関」であり、その改組については、「改組というよりは、従来の文部省を廃止して、新しい文部省の建設」であり、文部省の改組を「他の各省の多くのそれとに解することは大きな誤り」として新生文部省を大いにアピールしていた(13)。


3 制定時の文部省設置法の特質

 このように文部省自身によって「指導助言」のための「サービス機関」であることが強調された文部省の性格が、文部省設置法上にどのように具体化されていたのだろうか。
 法律の構成は、第一章 総則(第一条〜第五条)、第二章 本省 第一節 内部
                                 
部局(第六条〜第一二条) 第二節 国立の学校その他の機関(第一三条〜第二四条) 第三節 地方支分部局(第二五条〜第二八条)、第三章(第二九条〜第三〇条)および附則からなっている。

 まず、「この法律の目的」(第一条)は、「文部省の所掌事務の範囲及び権限を明確に定めるとともに、その所掌事務を能率的に遂行するに足る組織を定めること」としている。

 「文部省の任務」(第四条)については、

 1 教育委員会、大学、研究機関その他教育に関する機関に対し、専門的、技術的な指導
   と助言を与えること、

 2 民主教育の体系を確立するための最低基準に関する法令案その他教育の向上及び普及
   に必要な法令案を作成すること、

 3 教育のための予算案の作成及び国庫支出金の割当、配分を行うこと、

 4 教育のための物資の確保について援助すること、

 5 大学及び研究機関の研究活動を連絡調整すること、

 6 国際的な教育に関する国内における諸活動を連絡調整すること、

 7 教育に関する調査研究を行い、及びその調査研究を行う機関に対し、協力
  し、又は協力を求めること、

 8 教育に関する専門的、技術的な資料を作成し、及び刊行頒布すること、

 9 このほか、教育に関し法律に基づき文部省に属せしめられた事務を行うこと、

の九項目の国の行政事務を「一体的に遂行する責任を負う行政機関」であると規定している。この第四条において、文部省が、第一義的に指導・助言を与える機関であり、物資確保のための援助や国内外において教育研究の連絡調整をはかるといったサービス機関としての性格づけが行われているといえる。第五条「文部省の権限」では、二七項目にわたって具体的に権限行為が掲げられている。特に第二項において「文部省は、その権限の行使に当って、法律(これに基く命令を含む。)に別段の定がある場合を除いては、行政上及び運営上の監督を行わないものとする」という、各省設置法には見られない独自の条文を設けており、監督機関から性格変更が行われたことを明文化した。

 これは、文部省設置法に先だって制定された教育委員会法において、高等学校以下の学校教育、地方における学術、文化に関する行政等は、地方教育団体に移譲され、大学については、大学行政法が予定されていたことによるものであり、今後文部省の権限はさらに減少していくことを予想させるものでもあった。

 また、機構としては、戦時体制のもとで一官房七局(官房、学校教育局、社会教育局、科学教育局、体育局、教科書局、調査局、教育施設局)を一官房五局一部(官房、初等中等教育局、大学学術局、社会教育局、調査普及局、教育施設部を含む管理局)とした。これは、国の行政簡素化の一環によるもので、機構改革以前に比して二局減少している。

 この機構改革によって、これまで、対象別に設置されていた部局(学校教育局、社会教育局)と行政の内容別に設置されていた部局(体育局、教科書局、科学教育局、教育施設局)とを整理して、対象別で局を区分した。そして権力を伴う権限行為ある許認可行為、検定等は管理局として一局にまとめた。

 こうして性格変更された文部省について森田(前出)は、「あらゆる権力と強制を排し、ただ真の民主的なあり方についてしんせつな助言を続けてゆくことが新しい文部省に期待せられる」(14)としながらも、「行政整理が、理論や実態をある程度曲げさせた無理が感ぜられないでもない」(15)という率直な感想を漏らしている。

 結局、新しい文部省の性格は、文部省当局者の主体的な意思というよりは、教育刷新委員会よって提示された改革方向を忠実に具現していくことを余儀なくされたものだったともいえるのではなかろうか。


4 施行後の主な改正について

 文部省設置法の改正は、冒頭にも示した通り、これまで七二回行われている。その中でも、文部省設置法を考えるうえで重要と思われる、文部省自体の性格変更が行われた改正と、法制上の編成原理の変更との二つについて述べておこう。

(1) 一九五二年の改正
 文部省の性格変更に関わる改正が行われたのが、施行からわずか三年後の一九五二(昭和二七)年七月三日の改正である。

 まず、「文部省の任務」(第四条)については、これまで九項目の行政事務を掲げていたのを廃し、「文部省は、学校教育、社会教育、学術及び文化の振興及び普及を図ることを任務とし、これらの事項及び宗教に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関とする」とのみ規定しているが、行政事務の及ぶ範囲は教育、学術、文化、宗教の全体にわたることとなった。

 「文部省の権限」(第五条)は、二七項目だったのが、これまでの「文部省の任務」(第四条)の項目の一部が統合され、三二項目に増えた。

 新たに加えられた項目(第四条の項目からの統合を合む)には「地方公共団体及びその教育機関の行う教育、学術、文化及び宗教の事務に関する制度並びに地方公務員たる教育職員に関する制度に関し、調査し、及び企画すること」、「教育、学術、文化又は宗教に係る国際的に供給の不足する物資を割り当て、及び教育、学術、文化又は宗教の直接の用に供する物資の確保についてあっ旋すること」、「地方公共団体及び教育委員会、都道府県知事その他の地方公共団体の機関に対し、教育、学術、文化及び宗教に関する行政の組織及び運営について指導、助言及び勧告を与えること」等があり、ここでも教育、学術、文化、宗教という文言が頻繁に登場し、「企画」、「勧告」という文言の使用により、文部省の権限、特に地方教育行政に対する権限が強化されたことがうかがえる。

 このほか、各部局の事務に関する規定も改正され、指導、助言等が増加した。

 この改正の趣旨は、第一三回国会では、第一に行政簡素化による文部省の内部組織の簡素化、第二に大臣官房の事務を人事、総務、会計の官房本来の事務に限り、それ以外を関連部局へ移すこと、第三に「従来の機構のうち不合理或いは不便な点をあらため」て、「独立後の新事態に即するような所要の調整を加えた」と説明されている(16)。この第三の点について当時の文部省担当事務官は、再検討を要する点として「文部省の権限と責任の間の不均衡」をあげ、教育行政の主管大臣として文部大臣が、国会に責任を負う建前になっているのに対し、「権限が極めて限局されている」として、「文部省が現情よりは多少の指導力を持つことも考えられるのではあるまいか」と述べている。また、教育委員会制についても「その根幹は動かすべきではない」としながらも、「地方分権主義の、実情に即さない行きすぎを是正することに意を払うべきであろう」(傍点は原文のまま:「いきすぎ」部分)としている。この点については、教科書行政を例にとって、「教科書の検定に関する事務をなんらの準備もなく、単に地方分権主義の公式論を適用して地方に移譲するならば、現段階ではむしろ弊害がはかり知れないであろう」とも述べている。さらに、文部省の指導行政と管理行政の分離については、「文部省自体がもはや権力行使を主たる機能とする行政機関ではない今日、単に権限行使を抑制することを目的とする「チェック=アンド=バランス」の方式を依然として固執することはあまりにも無意味である」としている(17)。

 なお、翌一九五三(昭和二八)年八月五日には、学校教育法の一部改正に伴って、文部省設置法に「教科用の図書を検定すること」が加えられた点も注目される。

 文部省の権限強化、地方分権の再検討というこの改正は、文部省設置法制定の趣旨に逆行するものであるとともに、その後の文部省の性格を決定づけるものであった。

(2) 一九八三年の改正
 行政改革の一環として、一九八三(昭和五八)年一二月二日に、国家行政組織法の一部を改正する法律及び国家行政組織法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(文部省設置法を含む)が公布された。この改正によって、行政組織は法律で定めるという法定主義原則が崩れることになり、これまで文部省設置法で規定されていた大臣官房、局・部といった内部部局の設置が政令事項となった。これを受けて翌一九八四年には、文部省組織令が全面改正され、文部省設置法は、従来の四四条から一六条へと減少した。当時の『文部時報』によると、文部省の再編成は「初等中等教育に関する行政の効率的な運営、大学教育その他の高等教育に関する行政の総合的な推進等、時代の変化に対応する総合的な文教行政の推進に資するよう」行われた(18)とされている。

 しかし、この改正の特徴として、
 1 内部部局等の定めが設置法から組織令に移されたこと、

 2 従来大臣官房および各局の事務として規定されていた所掌事務が「文部省の所掌事
   務」(第五条)としてまとめられたこと、

 3 大臣官房に関する権限と所掌事務のほとんどが組織令に移されたことにより、「行政
   府みずからの判断による内部部局とその事務の再編合理化が格段に容易になっ
   た」、「省内の統合・調整機能の自律的強化をより容易に行ないうる体制になっ
   た」との指摘がある(19)。


5 問題点と今後の課題

 現在の文部省は、本省と文化庁からなり、本省には大臣官房と生涯学習、初等中等教育、教育助成、高等教育、学術国際、体育の六局と、大臣官房に教育施設部、高等教育局に私学部の各一部がおかれ、文化庁には文化部と文化財保護部の二部がおかれている。さらに、局の内部には三六課一五室がおかれ(一九九七年五月現在)、特に室については増加傾向にある。

 これらの局課に配分される事務は、第五条(所掌事務)及び第六条(権限)で規定されており、さらには文部省組織令で詳細に定められている。その内容は、指導助言に加えて、企画立案事務が目立つようになってきていることが特徴といえる。つまり、これまでみてきたような改正のねらいが、文部省によって企画立案されたことがらを地方教育行政機関が実施するという、中央集権化を進行させるところにあったといえるのではないだろうか。

 この第五条及び第六条に関しては、法制度上、文部省の権限が強大化し、行政作用の及ぶ範囲が広域化する場合に、教育行政機関は、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標とする(教育基本法第一〇条)という観点に照らして問題があるといえる。

 さらに、近年の行政改革の観点から文部省を含む省庁の再編の動向が注目されるところとなった。一九九六年一一月に総理府に設置された行政改革会議(会長・橋本能太郎首相)は、二一世紀国家機能や中央省庁の再編について論議を進め、現在各省庁に対してヒアリングを行っている。文部省についても、国立大学の独立機能化又は地方移管・民営化、科学技術行政と大学・学術行政の関係及び組織の在り方、大学を含めた国の研究機関全体の調整・管理の在り方及び研究機関の組織形態、義務教育関係・私学行政関係等の大幅な権限委譲、教育委員会制度の見直し等、文部省の役割や機能が改めて抜本的に検討されようとしている。今後文部省自身がこれらの問題についてどう対応し、いかなる改革を進めて行くのか、その改革動向を注視していきたい。


(1) 宮原誠一、丸木政臣、伊ケ崎暁生、藤岡貞彦 『資料日本現代教育史1』三省堂、一九
  七六年、六一〜六二頁。
(2) 同左、一四四〜一四五頁
(3) 平原春好 『教育行政学』東京大学出版会、一九九三年一二四頁。
(4) 鈴木英一 『教育行政』(戦後日本の教育改革 第三巻)、東京大学出版会、
 一九七〇年、巻末折込。
(5) 同右、五六〇〜五六一頁。
(6) 前掲『教育行政学』一二四頁
(7) 『第五国会衆議院内閣委員会・文部委員会連合審査会議事録』第1号(一九四九年五月
  六日)。高瀬荘太郎文部大臣による提案理由説明。
(8) 同右、二頁。
(9) 同右、一〇頁。
(10) 同右、一一頁。
(11) 当初教育委員会法では、各都道府県教育委員会による教科書検定を予定していたが、
   当時の経済事情、用紙事情から、当分の間、文部大臣が検定を行うこととしていたと
   ころ、一九五三(昭和二八)年の学校教育法第二一条の改正で、教科書の検定の権限が
   文部大臣に移され、教育委員会による検定は一度も実施されないままに終わった。
(12) 『第五回国会参議院内閣・文部連合委員会議録』第1号(一九四九年五月六日)三頁。
(13) 森田 孝 「新しい文部省の機構と性格」『文部時報』第八六三号(一九四九年八月)
   四〜一五頁。
(14) 同右、一三頁。
(15) 森田 孝 「文部省機構改革の要点」『時事通信内外教育版』第一五七号(昭和二四
   年五月一七日)。
(16) 『第一三回国会参議院内閣委員会会議録』三五号(一九五二年六月三日)。相良惟一政
    府委員(大臣官房総務課長)による提案理由説明。
(17) 相良惟一 「文部省の新しい機構と機能」『文部時報』第八九九号(一九五二年七月)
   五頁。
(18) 「文部省組織令の改正について」『文部時報』第一二八六号(一九八四年七月)、六〇
    頁。
(19) 小出達夫・荻原克男 「文部省設置法・文部省組織令概説」
  『基本法コンメンタール 教育関係法』日本評論社、一九九二年、三六二頁。     

出典:季刊 教育法110号、総特集●教育基本法50年、エイデル研究所、
   1997年6月、23-27頁。 

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