かつて03という素晴らしい雑誌があった....

 もう9年ほど前にさかのぼるが、そのころ創刊された雑誌に「03 Tikyo Calling」という雑誌があった。いわゆるカルチャー雑誌にはそれほど縁のなかった新潮社が創刊したのだが、わずか数年でこれが姿を消したことになる。その数年前、同じ出版社から「ロンドン・ラジカル・ウォーク」という文庫本を発表しているのだが、そんなきっかけもあって、あの当時、この雑誌を手伝っていた。その雑誌で発表したのが今回ここに復刻させることになった原稿だ。オリジナルが発表されたのは90年2月に発売されたロンドン特集で、この時には、他の原稿の手配なども手伝っている。ビリー・ブラッグが原稿を書いていたり、その後に、私が翻訳をすることになった「音楽は世界を変える」という本の著者、ロビン・デンズロウも寄稿している。また、友人のライターで編集者、当時、NMEの編集長からFACEやARENAで仕事をしていたニール・スペンサーなども原稿を書いていて、実に面白い。

 この号に、それまで取材した全てをそそぎ込んで執筆したのがGlastonbury CND Festivalのレポートだ。あの当時は、まだCNDという反核団体の寄付金集めを目的としていたので、今とは若干ニュアンスが違うが、それでもフェスティヴァルの根幹に関する限り、今も変わってはいない。このレポートの数年後、CNDは失速し、(東西の壁がつぶれたことによる)それから環境問題を中心に活動するグリーンピースへの資金集めということになっているのだが、今も続く世界で最も素晴らしいフェスティヴァルという趣は全く変わってはいない。

 日本でも昨年からフジ・ロック・フェスティヴァルが始まり、私もそれを手伝っている。そこにグラストンバリーの影響があるのは明らかだ。(なにせ、僕が手伝っているんだから!)もちろん、フジに政治的な背景はない。ただ、これを開催すること自体がすでに政治的な意味を帯びているのは確かだ。文化に対してあまりに矮小な味方しかできないお役所や、いまだにロックを「不良の音楽」だなんぞと見ている... あるいは、全く認識もしていない旧世代に対して、ある種の政治的な闘いをしているといった方がいいだろう。あの裏側にいると、あまりにもばかげた規制や偏見が役所からメディアに至るまで充満しているのを直面せざるを得ないのだ。全てをここに書くわけにもいかないし、また、取材として情報を得ているわけではないので、多くを記さないが、今年なぜ去年と同じ会場で開催できなかったのか、といった問題にそんな政治性が見て取れるのは想像できるだろう。

 ともかく、フジ・ロック・フェスティヴァルが今年は東京という都会で開催されることになってしまったのは残念だが、それを前にじっくり読んでもらいたいのがこの原稿だ。ちなみに、写真は友人のミッチ池田氏のご厚意によって使わせてもらった。この著作権は彼にあるので、コピーはご遠慮願いたい。

3 DAYS OF PEACE & LOVEグラストンバリーの光と影

Glastonbury 穏やかな波を打つように広がる草原がわずかに盆地を作っているあたりに、ボツンとピラミッドが姿を見せる。この異様な建物さえなければ、典型的な英国の田園風景にしか映らなかっただろう。目に入るのはノンビリと牧草を食べている牛や時折姿を見せる兎に小鳥ぐらいで、人影を見ることもほとんどない。まるで静止した風景画のように静かな佇まいを見せている。身体を洗われるように澄んだ空気と静寂に覆われたここは、ロンドンから遥か遠いサマーセットの片田舎。アーサー王伝説で名高いグラストンバリィ市郊外の村、ピルトンの外れにあるワージィ農場だ。

 が、この広大な緑の絨毯が、年に一度その姿を変える時がある。毎年6月中句のことだ。あたり一面がカラフルなテントに埋め尽くされ、集まってくるのは約10万の人々。小高い丘にはマーケットが出現し、数々のレストランも姿を見せる。また、子供たちが一日中駆けまわる遊園地やサーカス、それに音楽や芝居、映画用の劇場サイズの大型テントも出没するのだ。中心にあるピラミッドでは数々のミュージシャンの熱演が繰広げられ、世界中から集まった人々が熱狂の渦に巻き込まれる。しかも、どこからでも溢れるように聞こえてくる音楽。その光景を見ていると、あたかも突如として街が生れたような錯覚に襲われるのだ。それが〈グラストンバリィCNDフェスティヴァル〉。おそらく、今では世界最夫の規模を持つピース・フェスティヴァルだ。

ピース・マークのあるピラミツド

Glastonbury  初めてここを訪ねた82年、これがどれほどの衝撃を与えてくれたことか……。まずは、まるで"ウッドストック"を思い起こさせる人々の表情だった。60年代のヒツピィのような若者や、ピラミツドの頂上に姿を見せるピースマークから沸き起こる。"ピース&ラヴ"のイメージ。テントで生活する人々のカセット・レコーダーからドアーズやジミ・ヘンドリックスが流れてくると、とたんにあの頃ヘタイム・スリツプしたような気分になるのだ。

 もちろん、ピラミッドで演奏されていたのは現在進行形の音楽だ。そこには過去を振り返る感傷など微塵もなかった。また、集まっている人たちにはヒッピィもいれば、バンクやドレッドロックに決めた黒人たちもいる。特に強烈に80年代を感じさせていたのが後者だ。時代の変化を象徴する彼らが、80年代に甦った"ウッドストック"の意味を如実に語りかけていたように思えるのだ。  フェスティヴァル運営の核になっていたのはCND(CAMPAIGN FOR NUCLEAR DISARMAMENT-核廃絶運動)。草の根を中心に作られた英国最大の反核運動体だ。ピラミッドからは、ミュージシャンの演奏に混じって、運動を進める活動家のスピーチが流れ、それが音楽と同じように熱狂的な反応で迎えられていたのだ。が、なによりも衝撃的だったのは、その全てを包み込むように放射されていたある種のエネルギィとでも言えばいいだろうか。例えば、ステージから聞こえてきたこんなメッセージだ。

「ほんの1分でいい、完全な沈黙を作りだそう。簡単なことかもしれないけど、僕らが努力すればなにかができるんだってことを証明するために」

 すると、一斉に静まり返ったのが200エ−カーの農場だった。沈黙を破ったのはその前でクダを巻いていた青年ひとり。「イージーすぎるじゃねえか!」と叫ぶ彼の声は、逆にここに集まった無名の人々の可能性を証明していたように思えるのだ。また、ほのかな霧があたりを包み込んだタ暮れのこと。誰かが帯状になった懐中電灯の明りをピラミッドの頂上に当てると、そこに続いたのが幾本もの光の筋。闇夜にピースマークがボッカリ浮かぴ上がり、思わず拍手と歓声が沸き起こる。あの時、その光を反射するように輝いていたのは、こんなドラマを生みだした人々そのものだった。

パンクと政治が結びついた

Glastonbury フェスティヴァルを毎年訪ねるようになったのは、そんなドラマとエネルギィに動かされたからだ。当時英国を激震させていたのは70年代後半に起きたパンク革命。無論、CNDも例外ではなかった。起爆剤になったのは79年に決定されたNATOの中距離核ミサイル欧州配備。右も左も貧乏人も金持ちも、全てを破壊する核戦争への恐怖が従来の思想や政党を超えた生存のための反核運動に急激な成長を促し、それが既成の価値観を否定するバンクと結びついたのだ。50年代の米ソ冷戦をきっかけに生れ、60年代のヴェトナム反戦運動を経て、70年代に生存運動として復活したのがCND。ボヘミアンとヒッピィとバンクが、世代を超えて80年代を舞台に変革への新しい潮流を作っていた。その流れを象徴していたのがこのフェスティヴァル。主催者で農場主のマイケル・イーヴィスと私の親交はその取材から始まっている。

「要するに、ディランやドノヴァンが歌ってたことを現実にしたかったんだ。そうだねえ、普通よりも少しばかり繊細な人たちへの、新しい価値観を持ったエンターテインメントの場…… いわば、ロマンティックな理想郷を形にしたかったんだ」

 フェスティヴァルの準備に忙殺される合間を縫って、初めて彼と話したのは83年6月。あの時、彼のこんな言葉を耳にしてから6年が過ぎているが、彼にとってその6年間は苦難の連続だった。85年頃からおおっぴらにドラッグを売り歩くディーラーが急増し、86年になると目立ち始めたのは強盗、窃盗といった犯罪や事故。一時はマイケルにこんな相談を受けたこともあった。「ホントにこれを続ける価値はあるんだろうか」実を言えば、81年以来毎年開催されていたフェスティヴァルが中止されたのが88年のこと。おそらく、この時、彼の苦悩が限界に達していたのだろう。が、彼自身に「今までで最高だった」と言わせたのが再始動した89年だった。そのマイケルに久々にインタヴユーを試みたのが89年9月。10万人の喧騒が完全に拭い去られ、再び静かな田園風景に戻った農場を訪ねた時だった。

アヴァロンヘの入口で

Glastonbury「僕はヒッピィじゃなかったし、ドラッグもやったことがない。ただ、60年代の変革の一部になりたかったんだ。政治的な人間じゃなかったけど、ヴェトナム反戦に反物質王義に反体制……、全てに反抗してたね(笑)。反戦、反ビジネス、反利潤……、いまだにそんな気持ちがあって困ってるけど(笑)。とにかく、全てが変化していった時代さ。若者が望んでたのはホントの変革だった。音楽も変革を表現してただろ? ビートルズにストーンズにボブ・ディラン、それまでボツプ・ミュージックにはメッセージも政治もなかったのに、突然全てのミュージシャンがそれを始めたってのか。その頃からさ、音楽が意味や目的を持ち始めたのは」

 実はこのフェスティヴァルの原形が生れたのは70年。もちろん、そこには"ウッドストック"の影響があった。フラワー・ムーヴメント華やかなりし頃の言葉を使えば、ギャザリング----音楽を核に集うこと----それが始まりだったというのだ。T・レックスが出演した1回目に集まったのは500人ほど。その翌年も続けられたのだが、マイケルの夢を遠ざけたのは膨大な借金だった。が、79年に小規模なチャリティ・フェスティヴァルとして復活。80年に彼の子供が生れたのをきっかけに、CNDとの共同作業が始まっている。

「実感として『何かしなきゃ』と思ったんだ、核兵器に対して。一番下の娘が生れてね。彼女の将来を思うと、気が気じゃなかったんだよ」〈グラストンバリィCNDフェスティヴァル〉はそんなプロセスを経て誕生しているのだ。「確かに"ウッドストック"に続いたと言えるね。ただ、あれは1回だけだったし、僕が実際に経験して、直接の動機にもなった英国の〈バース・ブルーズ・フェスティヴァル〉も2回で終ってる。でも、僕らは続けてきたんだ、過去を消化しながら。それに、ここにはある種のマジックがあってね。ケルト伝説や歴史的な神秘性とか、妙な組み合わせだけど、それが僕らの政治や夢と重なりあってるんだ。だから、みんな集まってくるんだよ」

 ピラミッドの彼方に見えるのはお椀を伏せたような奇妙な丘だ。頂上にはチャペルが顔を覗かせ、神秘的な空気を漂わせている。また、近くに点在するのは巨大な地上絵や巨石文明の跡。空高くからこの地域を見ると、占星術に登場する12の星座の形がほのかに浮かび上がり、英国で最も頻繁にUFOが目撃されているのがこことストーンヘンジを結ぶ線上とも言われる。ケルト伝説のアヴァロン(極楽)への入口がここにあるのかどうか、そんなイメージが重なっているのか、フェスティヴァルに惚れ込んでいるヴァン・モリソンが、新作を『アヴァロン・サンセット』と名付けたのはそれが理由だとは、マイケルの説だ。ヒッピィがここを聖地にしているのもそのためだろう。ピラミッドを作った彼の仲間たちも多くはヒッピイ。あるいはその影響を受けた人々だった。

「CNDとの関わりを理由に離れていった人たちもいたよ。特に昔のヒツピィ・タイプさ。82年にステージで『沈黙を作ろう』って呼びかけたトニ−もそのひとりでね。昔は彼がPAをタダでやってくれてたんだけど、政治を持ち込むのに反対してね。今も毎年姿は見せるけど、いつも文句言ってるよ。U2の舞台制作の会社をやってるロジャーやジョンも離れていったクチさ。残ってる人もいれば、新しく入ってきた人もいるよ」

平和の楽園沖ら巨大なポツプ・フェスヘ

Glastonbury わずか3万人しか集まらなかった82年。それが年を追うごとに巨大化し、10万人を集める今は、会場に使われる土地も2倍の広さになっている。"平和の楽園"から巨大なボップ・フェスヘの変化をつぶさに見てきた私自身、商業主義と政治の間で揺らぐフェスティヴァルに疑問を感じたことも少なくはない。特にショットガンを持った強盗まで登場した86年は、その最たるものだった。

「85年から86年だね、最悪だったのは。実を言うと、87年はもう諦めかけてたんだ。問題を解決するのが不可能のように思えてね。都会の人間がここを発見して、彼らの問題が流れ込んできたってのかな。1年間の休息はそれが理由だったんだ。その結果が規模の縮小さ。インディ系中心のサブ・ステージをなくしたり、警察に金を払って会場を警備してもらったり……。おかげで犯罪はなくなったけど、もう小さくても美しかった昔には戻れない。だって、あの頃はガードマンも警察も必要なかったじゃないか」

 そう語る彼の表情に落胆は隠せない。警察に依存しなければならないことが耐えられないのだ。

「でも、まだ希望は持てると思うんだ。例えば、お客同士のケンカや暴力沙汰は今まで一切なかったし……。大規模になれば、酔っ払ったり、ドラッグでフラフラになった子供が出てくるのは避けられないかもしれないけど、それでも、普通のボツプ・フェスとは歴然とした違いがあるだろ?だって、これは反体制ってのか、新しい価値観を持った人たちの"祭り"なんだから」

 しかし、政治的な要素も次第に薄れているという批判もよく耳にする。実は、この目彼を訪ねる途中で拾ったヒツチハイカーのカツプルが口にしていたのもこんな不満だった。「変わったよ。まるで金持ちのヴァカンスじゃないか。シャンペン飲みながらライヴを見てる運中がいるんだもの」入場料の値上がりもそれに拍車をかけている。14歳以下の子供たちはタダで入れるのだが、今の英国で28ボンド(約6500円)はやはり高い。

「正直一言って、もうこれ以上多くの人に来てほしくないってのかな。あまり多くの人が集まるから、高めに設定せざるを得なかったんだ。そうだね、ひょっとして、政治的な意味合いも失われてきてるのかもしれないな。そうなってほしくないけど。ただ、僕らの主張は出てるよ、いつも。軍拡や人種差別、性差別、アパルトヘイトに左翼や右翼の抑圧、全体主義的な国の問題とか……。フェスティヴァルを通して、そんな問題を浮き上がらせていると思うんだ。ただ、僕らにとって最重要なのは核兵器の存在なんだ。それが理由なんだよ、なぜこれほど多くの人がここで働き、素晴らしい出演者を得られるのかっていう」

フェスティヴァルの収支決算

Glastonbury 確かにその違いを感じたのが初めてレディングのロック・フェスティヴァルに行った時だった。集まってくる人の表情か、あるいは会場に流れる空気か……。ともかく、何かが微妙に違うのだ。

「それは出演者に関しても言えるよね。別に値切ってるわけじゃないけど、エルヴィス・コステロは莫大な金を積み上げた〈レディング〉を断わって、通常の半分のギャラで出演してくれてるし、ウォーター・ボーイズだってそうさ。まあ、僕はプロじゃないから、ホントのギャラがいくらか正確には知らないけど、CNDへのチャリティってことで大抵は安い金で出演してくれるんだ」

 政治的な歌を歌いながら、イメージに傷がつくと出演を断わったティアーズ・フォー・フィアーズや、熱心に反核運動を続けていながら法外なギャラを要求したザ・スタイル・カウンシルのマネジャー。掘り起こせば、そんな裏話はいくらでも転がっている。が、多くのアーティストが、これをただのライヴではなく、特別な意味を持つイヴェントとして認知しているという点が重要なのだ。

 「もちろん、ディランに出演を頼んだこともあるよ。だって、僕が最も影響を受けた人だもの。でも、『自分のショウならやるけど』ってんだ。結局はエゴやステイタスに振り回されてて、残念だよ。それに、ただのショウなら、〈クラストンバリィ〉じゃない。ここには全てがあるんだ。CNDだけじゃなくて、演劇やサーカスに子供…… それに新しい価値観を持つ人々。その全てがあってこそ〈グラストンバリィ〉たりうるんだ」

 それは出演者だけではなく、ここで働く約1000人のスタッフについても言える。多くはCNDからのヴォランティアで、50名を数える医師や看護婦も完全な無料奉仕だ。もちろん、代わりに89年はフェスティヴァルの収益から約15万ポンド(3500万円)をCNDへの寄付にまわし、地域にある"核兵器に反対する医療運動"という団体にも8000ボンドの寄付をしている。

「これが純粋に商業べ−スで運営されていたら、実現不可能さ。そうでないからこそ、いろんな人の協力が得られるわけだし、それなくしてフェスティヴァルは成立しないよ。実際、売り上げから僕が取るのはフェスティヴァルを続けていくのに必要な金ぐらいさ。農場が一カ月は使えなくなるから、その問、牛からミルクを取れない分をもらってるんだ。一銭も儲からないどころか、税金の計算を問違えて損をした時もあったし、予想以上に入った時もある。でも、まだ50万ボンドも借金があって、農場のローンも終わってないんだけどね。ともかく、売り上げから必要経費を引いて、PAや会場作りに働いた人たちや駐草場として農場を借りた近所の人たちに支払いもしなきゃいけないから。実は、彼らの多くは保守党支持で、金になるから文句言わないってこともあるし。学校や施設に寄付もする。こんな言い方嫌いだけど、でなきゃいつ潰されるか……。そして、CNDに最大限の金を渡せるようにしてるんだ。現実的には金の問題だけど、それができなきゃ統けていく価値はないとも思うんだ」

フェスの運営をさまたげるもの

極めて保守的な田舎での開催やヒッピィのイメ−ジ、そしてCNDという政治団体の存在……。全てがフェスティヴァルの運営を難しくしていると言っていいだろう。特に地方公共団体からの圧力だ。野外興行には許可が必要で、今までそれを理由に、幾度も中止の危機に立たされた。収容人員を規制され、それも年々厳しくなっているのだ。87年は発売チケット数を5万5000枚に限定され、89年はさらに4万5000枚に減少。毎回チケットは売り切れ、それでも会場にやって来る人があとを断たない。混乱を避けるため、結局は会場でチケット代を払えば入れるようにしたが、役所はそれも許さないと裁判沙汰になっているのだ。

「許可が必要なのは音楽の興行だけなんだ。一股的な印象はポップ・フェスかもしれないけど、音楽に使ってるのは会場面積の10%弱だよ。結局は政治さ。今は反サッチャー勢カが議会を占めてるから大丈夫だけど、それも後2年で、その先はわからないね。保守党が戻ってきたら、許可は取れないだろうな。92年はどうなるか。もし、そうなったら、ひょっとして音楽抜きで開催せざるを得ないかもね。それも悪くないんだろうけど……。とにかく、今は裁判所も僕らの味方で『素晴らしいことをしてる』って手紙まで貰ってるんだ。観客数も実際よりは少なめに見てくれてるし……(笑)」

 プレスの発表では集まった人は10万人。が、警察発表は25万人と、その実数は定かではない。マイケルは実際に売れたチケットの枚数しか発表しないのだが、無料入場する子供やフェンスを越えて入ってくる人を含めても、前者が妥当だろう。が、問題はそんな数ではなくて、やはり醜悪な政治。それを指摘したのが彼の妻、ジーンだった。

「ハッキリ言われたもの、保守党の政治家に。CNDさえなくなりゃ、いつだって簡単に許可出すって。結局はCNDが問題なのよ。だって、村はフェスティヴァルで金を儲けてるんだから、基本的には反対はしてないんだもの」 それを受けてマイケルはこう続けるのだ。

「本意じゃなかったけど、CNDを切り離すかどうかを会議にかけたんだ。フェスを運営してるこの地方のCNDのメンバー30人が集まって。でも、誰一人として賛成するものはなかった。当然だと思うんだ。でなきゃやる意味がないもの」  と、フェスティヴァルを続けていく彼の決心が揺らぐ様子はない。が、ある種のエネルギィに覆われていた82年当時は、確かにフェスティヴァルが運動や集まってくる人々の意識に重要な影響を与えていたはずだが、はたして現在はどうか。

「さあ、どうだろうね。経済的な意味でCNDに多くをもたらしているのは確かさ。彼らにとって最大の寄付がここから生れるんだから。それに少しは若い人たちに影響を与えていると思うよ。そう望むし……、それには確信があるね」

そして闘いは続く

彼にとって重要なのは"反核"という題目ではない。それよりも現実的な変革。そんな気運がフェスティヴァルで発酵しているというのだ。

「若者が田舎に集って楽しい時を過ごしながら、政治や環境問題に巻き込まれる。よりよい世界を求めてる人たちが、ここで確認するんだ。平和や愛、友情や互いを気遣うことを。僕の夢はみんなをそんなロマンティックな世界に連れ戻すってのか……。ここに来るアーティストやシアターやサーカスが、日々の現実から逃れるオアシスを作ってくれるんだ。ほんの数目間だけでもいい。それを通してわかるだろ?いかに幸せになるか、楽しむか、そして平和に生きるかって。そのためにメッセージや議論しなきゃいけないことがあるんだ。好むと好まざるとに拘らず、それが一般の人たちの関心を高めるじゃないか。同時にセレブレイションでなけりゃいけない。生きてる喜びや幸せとか……。しかも、都会に戻っても、忘れられない経験でなきゃいけない。そして、それを子供たちに伝えていくんだ。逃避と思うかもしれないけど、全く逆さ。これを体験することで、もっと容易に現実に直面できるようになるし、実際に何かを変える力にもなっていると思うんだ」

 もうひとつ、フェスを支える大きなカになっているのは、今も時代を動かす力を持つと信じる音楽に対する彼の愛情だ。ミュージシャンの名を出す時の彼の表情が、雄弁にそれを物語っている。

「無口で無愛想なヴァン・モリソンがステージで微笑んでたもんね。毎年のように出てるから、今年は頼むつもりはなかったのに、彼のほうから連絡してきたんだ。『僕が出なきゃ、グラストンバリィじゃない』って(笑)。嬉しいよ。来年は遂にグレイトフル・デッドが出てくれるって言ってるし、ジャクソン・ブラウンにも交渉中なんだ。それに、えっと、これはプレスには話せないんだけど、ノッティング・ヒルビリィーズが出るんだ」

 そう言いながらも、つい口にしてしまったのは個性的なギターで英国で絶大な人気を誇るバンドのリーダーが作ったセッション・バンドの名。それをここで発表すれはスクープなのだが……。なくなってしまった髪の代わりに伸ばし始めたのだろう、見事な顎髭を触りながら話す彼の姿は、どう見ても音楽好きのただの農夫でしかない。

「業界の人によく言われるよ、『なんでこれほど売れてるバンドをこんな時間に演奏させるんだ。それじゃ、素人じゃないか』とかね。でも、僕はプロになりたいと思ったことはない。どう転んでも僕はただの農夫さ。そのほうが楽しいし、ロックンロールを仕事にするつもりはないね。魅力もないし、そこで働いてる人も環境もペストだとは思わないから。そりゃ、音楽の力は信じてる。でも、彼らにはハートがないと思うんだ。そんなのよりもっと楽しいのは、フェスティヴァルを通して、体制に挑戦することさ。裁判所や地方の議会……、そんなものに対して闘いを挑む。それが一番面白いし、それは十二分に楽しんでるよ(笑)」

 人とゴミと車に埋もれたフェスティヴァルから約3ヵ月。ワージィ農場はそのわずかな時間に見事な緑を再生させていた。真摯に語り続けるマイケル・イーヴィスに童なったのは、そんな自然の逞しい生命力だ。おそらく、彼は今も90年のフェスティヴァル開催に向けて、忙しく走り回っているだろう。闘いはなおも続いていくのだ。

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