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2007年01月30日

寿[kotobuki]を聞きなさい、体験しなさい

寿[kotobuki] まだ2007年になってひと月も過ぎていないというのに、今年、自分にとって間違いなくベスト5に入るだろう、ライヴを体験してしまった。それが1月20日に新大久保アールズ・アート・コートで開かれた寿[kotobuki]のコンサートだった。

 初めて彼らを見たのは2005年の戦後60年の沖縄から平和をひらくコンサート。おそらく、彼らの本、『寿魂 - ことぶきたましい』を紹介した寿魂 - 大好きなバンド、寿の本が出ましたで書いていると思うんだが、あの時の彼らにぶっ飛ばされることになるのだ。なにせ、撮影しながら、涙が出て止まらなかったのだ。そんなの滅多にあることではなく、最近じゃ、昨年10月6日のマイケル・フランティとスピアヘッドや11月30日のU2ぐらいではないかと思う。もちろん、なにかが悲しくて涙が出るのではなく、ただ感動してそうなるのだ。言葉にできないほどの感激した時、自分の場合は涙が頬を伝う。奇妙なものだと思うんだが、そんなとき、感極まって撮影できなくなることもしばしばで、実に困りものだ。

 あの戦後60年の沖縄から平和をひらくコンサートの二ヶ月ほど後、スモモのすてきな歌謡ショウvol.3 びくりアイテム大放出!というライヴも見ているんだが、これはもうひとつ「感動」までには至らなかった。ところが、昨年、いつもならグラストンバリー・フェスティヴァルに出かけて日本にはいなかったはずなのに、数年ぶりに開催をお休みするという事態となったおかげで見ることができたのが6月23日のソウル・フラワー・モノノケ・サミット。その前座として登場した寿[kotobuki]にまた感動してしまうのだ。なんと、彼らが演奏したのはわずか6曲。確か前半は沖縄民謡が中心だったと思うが、覚えているのは「安里屋(あさどや)ゆんた」だけ。そして、オリジナルの最初に歌ったのが「シャローム・サラーム」だった。ヘブライ語で平和を意味する「シャローム」とアラビア語で平和を意味する「サラーム」をくっつけたもので、ソウル・フラワー・ユニオンにも同一タイトルの曲、シャローム・サラームがあるんだが、これは全く違う曲。ヴォーカル、ナビィによるとピースボートで知り合ったイスラエル人とパレスチナ人がいろいろなわだかまりを越えて一緒に作った曲をベースにしているんだとか。それをそのまま歌おうとしたんだが、言葉が理解できなくて感情移入できないからと、オリジナルの詞ををつけて歌っているらしい。まずはこれで「来た」。「父や母を失った子供たちにも愛や夢を失った人たちにも平和を!」と歌われるのがこの曲。文字だけではもどかしいとも思えるこんな言葉にナビィの「ソウル」が込められると、ビシビシとリアリティを感じるのだ。

寿[kotobuki] それに、いつもの「前を向いて歩こう」。これは、坂本九が歌った名曲の歌詞をもっと前向きに変えてしまったもので、原作者の永六輔も公認のヴァージョンだ。これなんて、ボロボロになること請け合いで、ライヴでは自分も声を出して歌ってしまう。数年前のフジ・ロックでクロージング・バンドとして最後に登場したソウル・フラワー・ユニオンがこのヴァージョンを歌歌ったことが、語りぐさになっているんだが、その「オリジナル」は寿によって作られたものだったわけだ。

 それから、彼らにとって最も新しいアルバム『寿[kotobuki tamashii]魂』の巻頭を飾る「ひろげよう」。

「冷たい夜は温め合おう、深い闇には明かりを灯そう...  ひろげよう、あなたの夢、私の夢、ひろげよう、命の夢...」

 と歌われている曲で(著作権問題があって、たくさん書けないのよ)で、これがいい。言葉面だけを見ていても、このあたりのニュアンスは伝わらないように思えるんだが、これがヴォーカリスト、ナビィの手にかかるととてつもない説得力を持ってしまうのだ。まるで淀みも濁りもなく、一点を見つめるように自分の未来に向かって逞しく確実に動いている人だけが持つパワーとエネルギーが、そうさせているんだろう。それがとてつもない迫力で迫ってくる。

寿魂 そのライヴからそれほど時間が過ぎてはいないというのに、今回は格別だった。なにせ今回は彼らのライヴ。前座でもなければ、誰かとステージをシェアーするわけでもない。寿のために全てが用意されている、そんなライヴなのだ。初めて見た時にはバックにドラムスとベースがいて、その次に見た時にはパーカッションが二人。が、今回はそのパーカッション二人に加えて、ピアノとゴスペル指向なコーラスが入っている。このコンビネーションが素晴らしい。ナビィとナーグシクヨシミツ(これが寿だ)だけで沖縄民謡を演奏することもあれば、アカペラで歌うこともある。ヴァリエーションも豊富で... っても、そんなことよりなによりはち切れんばかりの笑みを浮かべながら歌うナビィに何かがとりついているような感覚に陥るのだ。それほど一言一言の言葉が胸を突き刺してくる。しかも、それが心地よいのだ。

 とんでもない世界に足を踏み込んでいるように思える。どこかでなにかを突き抜けたようなそんな感覚かなぁ。ともかく、感激した。泣いた。嬉しかった。そして、幸せな気分になった。こんなライヴは久しぶりで、心の底から嬉しかったという感じかな。できれば、みなさん、一度は彼らを体験してもらいたいと思う。そして、できれば、彼らの本、寿魂を読んでもらいたい。なぜ彼らがこんなバンドになったのか、どこから歌が生まれ、成長していくのが、手に取るようにわかるはずです。



投稿者 hanasan : 16:35 | コメント (0)

2007年01月15日

Lily Allen : きわどいなぁ...

Lily Allen 新年があけて最初の撮影となったのはベイスメント・ジャックス。とは言っても、これはSmashing Magのためではなく、レコード会社のためのもので、10日の大阪、そして、11日の東京の両公演共に撮影しているのだが、現時点でこれをSmashing Magにアップすることは考えてはいない。おそらく、これを整理してこのサイトには記録として残そうと思っているけど、それにはしばらく時間が必要になると思う。

 一方、Smashing Magのための初撮影は12日のリキッドルーム恵比寿で行われたリリー・アレンが最初のもの。彼女はすでに昨年の11月にプロモーション来日していたんだが、この時、彼女を見ていなかったのは... 単純に「知らなかった」から。彼女の存在も、今回撮影する理由となった「彼女の親父」の情報も知らなかったのだ。ところが、あのプロモーション来日の後、どこかで見た原稿に「彼女の父親が、イギリスの役者、キース・アレンだ」と記されていたのを発見するのだ。ん? ということは、いつもグラストンバリーでジョーと一緒にキャンプしているあのキース? そうに違いないと言うことになって、それなら撮影しなければ... とアレンジを依頼したのだ。

Keith Allen これが2000年のグラストンバリーでの親父さん、キースの写真なんだが、これは彼がガーディアンかなにかの新聞に会場で取材され、その新聞を読んでいる時のもの。笑えます。で、おそらく、2002年ではなかったかと思うが、朝方いつものキャンプの場所で奇妙きてれつな音楽を耳にして、「これ、なに?」と彼に尋ねたことがある。「そりゃぁ、ジョーがめちゃくちゃ気に入っているメキシコのバンドだよ」といわれて、手に取ったのが、それから数年後にフジ・ロック出演のために来日することになるエル・グラン・シレンシオの『Libres Y Locos』というCDだった。実は、それを聞いていても立ってもいられずに、メキシコの彼らにコンタクトを取り、その時の9月に彼らが開催するフェスティヴァルに以降と計画を立てていたんだが、結局、それが中止になって彼らを体験するにはそれから数年待たなければいけなかった。

 と、そんな話を思い出していたんだが、まさか娘のリリーと会っていたことなんて全然覚えてはいなかった。実は、12日のライヴが終わって、楽屋に挨拶をしに行ったんだが、「私、覚えてるわよ、あなたのこと」なんて言われてしまったのだ。なんでも、2003年のフジ・ロックに親父と一緒に来ていたようで、その時に顔を合わせたんだとか。とすると、パレス・オヴ・ワンダーで彼らが大騒ぎをしていた時かなぁ... なんて思うんだけど、こっちは全然覚えてはいない。

 で、彼女のバンドのメンバーにも知り合いがいた。その昔、サンドラ・クロスのライヴをやった時にアラン・ウィークス(g)、ケンリック・ロウ(ds)、それにマイケル・ローズ(sax)、トレヴァー・ワトキス(p)と一緒に来ていたベース奏者でピーター・マーティン。あれが1999年じゃなかったかと思うんだが、彼も自分を覚えていてくれたのが嬉しかった。

Lily Allen そのリリーのライヴなんだが、基本的にはちょっとレゲエっぽいスカっぽい雰囲気を持っているもので、けっこうなポップス。といって、それだけを聞いていたら、おそらく、その魅力はわからないんじゃないかと思う。彼女のアルバム『Alright, Still』も聞いたことがないんだが、ライヴを見ているだけでも「なにが魅力」なのかがわかるのだ。その魅力は、あのかわいい女の子が「こんなこと歌うのね?」といった感覚なんだろう。なにせ、「これはね、ちっちゃいチンチンのことを歌った歌で...」なんてMCで歌い出すのだ。楽屋で話した時も、「あれは、ホントよ。今までそんな人ばかりだったから」なんて話し出す。あっけらかんと「大人が眉を曇らせるようなこと」を歌っているのだ。だから、アメリカ盤を見ると、「Explocit Lylics」という但し書きがついている。要するに、一般的な大人の常識では「わいせつで乱暴で過激な」言葉で溢れているということ。でも、それこそが「一般的な普通の女の子」には当然の言語であり、それが受けているんじゃないかなぁ... なんて想像をするのだ。

 その彼女は今日、名古屋で歌うはず。というので、ここにアップした親父の写真を送ってあげた。それを見て、彼女がどう思うんだろうなぁなんて想像しているところです。



投稿者 hanasan : 13:46 | コメント (0)

2007年01月12日

再び飲んだくれ三昧の恒例正月行脚

Salif Keita 例年のことなんだが、正月には実家に帰って数日を過ごした後、友人を訪ねながら東に向かって帰京するということになっている。ここで再び飲んだくれるんだが、なによりも嬉しいのはひさびさに友人と顔を合わせること。今回も懐かしい友に会い、彼らを通して新しい友ができた。嬉しいことだ。

 まずは伯備線で倉敷に向かい、地元でレコード店、グリーン・ハウスを経営しながら、FM倉敷というコミュニティ・ラジオを運営している友人のところで一泊。この日、彼の弟の奥さんと子供たちに出会っているんだが、さすが音楽好きですなぁ。ミュージシャンでもある彼の子供たちの名前がミュージシャンにあやかっているというのだ。長男はマリのミュージシャン、サリフ・ケイタからいただいて、ケイタと名付け、次男はジャンゴ・ラインハルトにあやかってハルトなんだとか。前者が日本で初めて紹介されたアルバム、『Soro』の国内盤でライナーを書いているし、フランスのミュゼットを取材したときの延長でジャンゴ・ラインハルトからピックをもらったというギタリスト、ディディ・デュプラとインタヴューしたこともあり、なにやら嬉しいような... しかも、この子供たちはウクレレを演奏するらしく、チック・コリアの名曲、スペインを演奏してしまうんだそうな。(オリジナルは『ライト・アズ・ア・フェザー 』収録なんだけど、自分が好きなのはアル・ジャロウのヴァージョンですな)末恐ろしい子供たちです。

 翌日には岡山でフレスコ画を書いている友人や学生時代の演劇部の仲間で、今は某大学で教授をやっている友人、そして、当時よく足を運んでいたジャズ喫茶(?)イリミテのマスターのところなどを訪ねて歩いた。そこで耳にしたのが開原整体。なんでもかなりユニークな整体らしく、そのマスターの奥さんが自分と全く同じような腰痛を抱えていたんだが、ここで処置してもらって治ったというのだ。これまでにも書いてきたように、自分の腰痛は心因性の疼痛ではないかと思っているんだが、ものは試しと、結局、それから数日後、福山市にあるここを訪ねている。

 周りは田んぼという、けっこうな田舎で、開原整体という看板は探し当てられるんだが、外見はただのクリーニング屋で中に入ると雑貨屋さんといった趣。その店舗のコーナーにカーテンで仕切られた一角があり、そこで処置してもらうんだが、友人のマスター夫婦から聞いていたとおり、めちゃくちゃ痛かった。とんでもなく痛かった。あまりの痛さに目を閉じていたので、実際に何を使ってどうやっているのか皆目わからないんだが、ちらっと目に入ったのがハンマー。おそらく、あれを使ってぐいぐいと骨を押すというか、ある方向に動かすんだろうなぁ... なんでもこの開原さんに言わせると、腰の骨、脊髄の5番目あたりがゆがんでいるというのだ。だから、それを矯正して、本来の角度に戻すというんだが、そんなの痛いに決まっている。

心療内科を訪ねて これも、あのマスター夫婦から聞いていたんだが、処置をしてもらった後もしばらくは「痛さ」が続くということで、あれからすでに4日目なんだが確かに今も痛い。ただ、なんとなくなんだが、「痛さ」がちょっと変化したような感じがしなくもない。そんな状態がしばらく続いて、「痛さ」が消えるとのことなんだが、どうなるんだろう。しばらくはこれにかすかな期待を抱きつつ、様子を見てみようとは思っているが、それでもだめだったら、おそらく、心療内科を目指すことになるんだろうなぁと思う。実は、今回の旅で移動中に読んでいたのが夏樹静子の『心療内科を訪ねて—心が痛み、心が治す』というものなんだが、これを読んでいて思うのは『心』と『身体』の微妙な関係性。今回の腰痛で学んでいるのは、『痛さ』と向き合うことは『自分』に向き合うことでもあるという真理だったように思う。簡単ではないんだが、『素』の自分を見つめたり、さらけ出したり... 周りの人たちには迷惑かもしれないけど、そうすることで本当の自分を探し出そうとしているのかもしれない。その一方で、「何でも試してやろう」と思ってやったのがこの整体。これがどうなるかは、いずれここで書き残すことになると思う。

Sleep Walker 話が前後してしまったが、この福山に向かう前、岡山から京都に移動していた。例年のことなんだが、友人のサックス奏者、スリープ・ウォーカーの中村雅人のところで数日居候するのが恒例になってしいて、今年も6日と7日は彼のところにやっかいになった。面白いのは、彼といるとユニークな人たちにどんどん出会ってしまうこと。今回は、一度彼がやっていた渋谷FMの番組でご一緒したデザイナーの西堀晋氏とかなりの時間を過ごすことが出来た。いつも京都に行ったら必ず立ち寄るのが、彼の作ったカフェ、eFishなんだが、そこで時間をつぶしていたら帰国している彼と再会することになった。現在、彼はアップルのデザイナーとして仕事をしていて、そこの12人(らしい)のスタッフの一人。今回お話を聞くところによるとMacBookのハードディスクの部分(いとも簡単にHDを交換できるという部分)は彼が関わっているとのことなんだが、当然のようにこれから数日後に発表されたiPhoneのことなんかは一切話してはくれない。そんなことをしたら、一発で首になる... というのはアップルの社員じゃなくても、マック好きなら誰でも知っていることだ。

 この日は彼とつもる話をして、ほとんど1日をeFish(えふぃっしゅ)で過ごしていた。ここには、以前記した男前豆腐の人たちもよく立ち寄るらしく、今回もその社長と再会。このとき、以前いただいたTシャツをのお礼をしているんだが、このTシャツは面白いし、安いので気に入った人は公式サイトで購入してみればいいと思いますよ。で、そのとてつもなくファンキーな公式サイトのデザインをやっているデザイナー、尾関幹人(オゼキミキト)さんとも出会った。なんでも彼は切り絵によるアートを出がけていて、このときはA1ぐらいのサイズの作品を見せてくれた。面白いよ。出来れば、彼のサイトで、詳細をチェックしていただければと思うんだが、実際に作品を見ると、そのユニークさにぶっ飛ばされること、間違いなしだと思う。

カンバラクニエ作品集 その日の夜はeFishのスタッフの一人が寿退社するというので、そのお別れ会に同席して、再び「飲み」に走ることになる。その後も何軒かをはしごしていくんだが、高瀬川沿いのある店(2度目なんだが、名前を思い出せない)で偶然出会ったのが、つじあやのさんとカンバラクニエさん。はじめで出会ったというのに、まるでずっと知っているかのように振る舞ってしまった私って... 失礼な人と思われたのではないかと思う。彼女たちは中学生からの仲良しということで、この日は二人で食事をしていたんだとか。そのカンバラさんが自分と同じ大学出身だということ。ひょっとして同じ大学を出た人と出会ったのは卒業以来初めてのことじゃないかなぁ。なんだだか、嬉しくなってしまった。彼女は農学部で、自分は法文学部。すでに、今ではこういった学部はなくて、法学部と文学部に分かれているはずなんだけど、あの大学に彼女も行っていたんだと思うと、なんだか「つながっている」ように思えてしまうのだ。とはいっても、時代が違いすぎる。彼女があそこにいたのは数年前のこと、その一方で、自分がいたのは四半世紀も前のこと。あまりに遠い。

 ちなみに、左は『カンバラクニエ作品集』というもので、こういった絵を描く人なんだとわかったのは、彼女と出会った数日後。ネットで調べたら、いろいろと出てきた。かなり著名な方のようでびっくりです。ここが彼女の公式サイトらしいけど、こういったものをみつけるにつけ、酔っぱらって大騒ぎしていた自分が恥ずかしくなるんだが、まぁ、それが「素」の自分だから、ご勘弁を.... してくれないかもしれませんが。(笑)いやぁ、かわいい女性だったなぁ。

 一旦、京都から岡山を経由して福山に出たのは、前述の通り。といっても、その途中、牛窓という町に行っている。瀬戸内海の島々への入り口で、ここに行った目的は今の段階では話せない。面白いことをしようとしている人がいて、それに絡むかもしれないということしか書き残せないんだが、このとき、知ったのが瀬戸内海の島々の魅力。大学時代にはそんなことをかけらも考えたことはなかったんだが、「不便さ」のせいか、昔の風情が小さな島々には残っていて、そこを求めてやってくる旅行者が増えているんだそうな。特に海外からの旅行者が好んでいるようで、そのあたりにひょっとしたら自分の仕事があるのかもしれないなぁ... と思ってみたり。ずっと昔から思っていることなんだが、いつか岡山か倉敷あたりに住みたいという気持ちがある。東京は、それなりに面白いところではあるけど、ここで本当に人間的な空間の中に住もうとすれば、それだけでとてつもない時間を金儲けに費やさなければいけない。本当に「生きる」ということの意味を考えたとき、今の自分がそうしているのかどうか、どこかで引っかかるのだ。ひょっとすると、それも腰痛の原因のひとつかもしれない。

Grandpa Jones 福山からは大阪へ移動。mixi仲間... といっても、バード・ソング・カフェで出会った方とミナミで、音楽好きな人が集まる店をはしごです。まずはJazz Boという店でアナログを数枚購入。心斎橋筋の元ソニー・ビルのあたりからすぐだったと思うけど、いつも通りcheapoと呼ばれる捨て値のアルバムを中心に買った。なんでも中心に品揃えをしているのはオリジナルのアメリカ盤で、そのせいか、国内盤の中古などは500円とか300円で売っているのだ。というので、そんな中から買ったのがバンジョーのグランパ・ジョーンズの作品『Pickin' Time』とダニー・コーチマーの『危険な遊び』。また、久しく聞いていなかったカントリー系が中心にちょっとジャズのエッジを持ったものが欲しいんだけど... と店主の横山さんにいろいろ探してもらってBuddy Spicherの『An American Sampler』やAlan Mundeの『The Banjo Kid』にKenny Kosek & Matt Glaserの『Hasty Lonsome』あたりを購入。後は、彼のお薦めで「絶対にええから!」というので、Steve Goodmanの『Affordable Art』というアルバムを買ったんだが、まだBuddy Spicherしか聞いていない。なかなか好きな音楽ですな。久しぶりにこういったものを聞くと落ち着きます。

 その後は飲み屋さんを三軒。最初の店でmixi仲間のテング!ジジイ!さんのお友達と仲良くなって、ひょっとしたら、自分の初恋の人とこの人が知り合いかもしれないという珍妙な話が持ち上がったり... それに毎日新聞の方と話をしたり... いやぁ、わけがわかりません。それでも知らない人に出会って話を聞けるというのは、ホントに面白い。その次の店では「誰がカバやねんロックンロール・ショー」というバンドが今もやっているということを聞いてびっくりしたり、その次の店では自分のiPodに入れている国本武春さんの三味線ブルーグラスを聞かせたら、みんな一目惚れしたり... テング!ジジイ!さんは、その場で携帯からmixiにアクセスして、国本さんのコミュニティをみつけてメールを出していました。久しぶりに大好きな大塚まさじのソロ・デビュー作『遠い昔僕は』をここで聞いて、「やっぱ、あの頃のまさじが最高やね! 今の歌い方はおもろないよ」とそんなことを話し合ったものです。

 その翌日、ベイスメント・ジャックスを撮影して、例によって例のごとく、なじみの店、『Big Cake』で軽く飲んで、翌日恒例の『正月飲み旅』を終えた。こうやって考えると、飲まなかった日は1日もなかったことになる。そのせいなんだろうなぁ、東京を離れたときには71kgまで落ちていた体重がちょっと増えて74kgにまでなってしまった。おそらく、肝臓もダメージを受けているんだろうと思う。ちょっと考えないとなぁ... と、年明けからこんな具合でこの先が思いやられるのだ。



投稿者 hanasan : 17:09 | コメント (0)

2007年01月03日

天の瞳 : 気持ちわかるなぁ!

灰谷健次郎 灰谷健次郎氏が亡くなって、読み始めたのが、遺作となった『天の瞳』という長編小説だった。12月14日にそのことを書いて、早速、この本を購入。全て文庫なんだが、なんとか全8冊をそろえたのは年末の12月29日だったと思う。それを全て読み終えた。本当だったら、このまま続きが延々と発表され、ひとりの少年の人生を描きながら、彼は「人間」のなにかを伝えたかったんだろうが、主人公、倫太郎は中学生のまま永遠に記憶の中に生きることになる。あるいは、読者の想像の中で成長していくのかもしれないんだが、それは読み手次第だろう。

 その本を読みながら、どこかで自分自身を見ているような気になったのが面白い。おそらく、誰もがそうなんだろうが、登場人物のある時期に接点を見いだすのだ。特に、自分に重なったのはメイン・ストリームとは相容れない倫太郎や、納得できないことは受け入れないミツル。しかも、この本でさかんに使われているのが大阪弁ということもあり、他人事には思えなかったのだ。自分が育ったのは大阪の田舎、南河内郡美原町で、言葉の響きまでもが重なっている。数年前にここは堺市の一部に編入されてしまったんだが、自分のなかでは今も故郷は南海高野線の初芝を、あるいは、萩原天神の駅を降りてすぐのあの町なのだ。そこでの経験がこの本のストーリーになにやら似ているように思えてならない。

 といっても、この本は保育園の頃から始まっているんだが、自分が生まれ故郷の岡山から大阪に越していったのは小学校へ入学する頃。半年ほど市内の淀川のそばにいて、それから南河内へ移っている。それから高校を卒業するまで過ごしたのがここだった。残念ながら、幼稚園時代の記憶はほとんど消えて、トラックにひかれたことや、頭に飴のついた割り箸を目に突き刺して血まみれになった話など、親から聞いて覚えているだけ。鮮明に覚えているのは紫の風呂敷をマント代わりに三輪車に乗って月光仮面ごっこをしていたことぐらいか... なんと幸せな幼年期よ!

小林多喜二 で、小学校の時、おそらく、岡山弁の訛りがあったんだろう、「いじめ」なんてものがあったのかもしれない。が、自分はそんな感覚では受け止めていなかったようで、ちょっとぐれていたって感じかなぁ。その頃、ある教師に「不良」だという烙印を押されて、めちゃくちゃ反感を持ったものだ。『天の瞳』のなかで、そういった教師を子供たちは「センコ」と呼んでいるんだが、あれから40年以上が過ぎてなお、自分にとってもあの女教師は「センコ」であり、許せない存在だ。まぁ、当の本人はなんも覚えちゃいないんだろう、そんな無責任アホ教師にしか思えないのだ。ところが、4年生になると同時に担任になった「先生」は、そんな自分を救い出してくれた方で、この頃から大量の本を読むようになっている。(ここにその実名を出したところで、なんもならんと思うが、氏本芳男先生という方で、数年前に他界された。一介の教師なんだろうが、自分にとって彼は命の恩人であり、彼なくして今の自分はない。ありがとうございました!)

 その恩師は左翼でもなんでもない、良心の人だったと信じるんだが、彼のおかげで漁るようにいろいろな本を読んだ。今でも記憶しているのは一月に最高記録で28冊の本を読破したこと。実は、今日40年ぶりぐらいに読み終えた(プロレタリアート文学の巨匠)小林多喜二の『蟹工船』も、その頃に読んだ一冊だ。恐ろしく早熟な子供だったと思うが、本を読むことのおもしろさを教えてくれたのがあの先生だった。

 そのほか、「赤い怪物がやってくる」という一文が記憶に残っているマルクスとエンゲルス共著による『共産党宣言』からエンゲルスの『空想から科学へ』も読んだ。... が、当然ながら、ちんぷんかんぷんでなんにも覚えてはいないんだが、そんなとんがった本のおかげかどうか、中学校では「頭髪自由化闘争」を仕掛けていた。『天の瞳』のミツルはもっと先を行って、入学式の日から私服で長髪のまま登校し、それを続けていったんだが、自分の場合は2年生の頃だったかなぁ。そんなものに疑問を感じて、早朝登校して全校にビラを貼りまくった記憶がある。ガリ版刷りなんてのを知る遙か以前で、カーボン用紙を使って手書きのビラを貼りまくったのだ。が、このときは.... 負けた。校長か、教頭と議論をして、歯が立たなかったのだ。っても、その反抗的態度はそのままで、歴史を教えていた教師、同時に、私がキャプテンをやっていたバスケットボール部の顧問とはいろいろなところでぶつかった。なにせ、歴史の授業でソビエト人を「ロスケ!」という差別用語で話したときにはぶち切れて、ケンケンがくがくの議論をしたことがある。加えて、バスケット部で、切れてしまった彼が「そんなんやったら、勝手にせぇ!」と言われたときには、「はい、わかりました!」と、他の部員が「どないすんねん!」と言っているときに、なにもかもを自分でしようとしたほどの「生意気な」ガキだったのだ。

西岡恭蔵 それに輪をかけたのが高校生時代で、「優等生面」で入学したというのに、1年生の終わりには学校をふけては難波のディランという喫茶店に入り浸っていた。しかも、制服をあざ笑うように黒のジーンズにボタン・ダウンのシャツで登校。当然のように担任に呼び出されるんだが、この頃は絶対に議論に負けることはなかった。おかげで卒業するまでこの教師は自分を嫌っていたらしいが、「制服の定義なんか、どこにもないのに、なにを抜かしとんじゃぁ」と、まるでやくざのようなけんかをしていたものだ。その延長として、制服廃止闘争をやって、これは実現させた。なにせ、全校生徒の80%以上の署名を集め、私服登校の日を設定するなど、めちゃくちゃなことをしていたのだ。ただ、実行日の直前に教職員委員会から「生徒会で話してもいい」ということになり、全校生徒に中止を連絡... したはずなのに、ひとりだけ、連絡が届いていなかった友人がいて、彼には悪いことをしたと、今でも思っている。

 ところが、生徒会というのがくせ者で、「自主規制」なんてことを話し始めて、ぶち切れる。そんな審議をしている最中に「ふざけんなぁ!」と私服での登校をたったひとりで決行。挙げ句の果ては現代国語の教師と授業を無視しての大激論をしたものだ。その次の政治経済の教師は皮肉しか言わないというので、プッツン。挙げ句の果てに、「なにを抜かしとんじゃぁ」と学校を飛び出して、前述のディランで煙草を吸いながら、友達と音楽の話をしていた。今考えると、とんでもない直情型なんだが、いまだに自分がしたことが悪かったとは思ってはいない。おめでたいものです。

 この『天の瞳』を読んでいて、思い出したのがそんなガキの頃の話だった。とはいっても、ここには知的障害児の話なども登場するし、テーマが多岐にわたっているのが「小説のなせる技」なんだろう。いろいろなことを考えさせられた。生きること、他者との関係、世代を超えた人間としてのコミュニケーションのあり方、人間を愛することの意味等々、いろいろなことを学ばせていただいた。この小説が続いていけば、まだまだいろんなことが出てきたはずなんだが、それももうありえない。確かにどこかで説教臭さがあり、「絵に描いた餅」的な理想論もあったかもしれない。が、それは小説だからこそのものであり、それをどう受け取りかは読み手次第だろう。いろんな意味で刺激を与えてくれた長編だった。もし、時間に余裕があるようだったら、これを読んでみればどうだろう。amazonのマーケット・プレイスでは、自分が書いた『ロンドン・ラジカル・ウォーク』同様、1円で中古を買うこともできるようだ。(ちなみに、「見識に問題あり」と、俺の本をレヴューしている「志村真幸」という人間に、「あんた。かしこいんやなぁ」と感じている今日この頃ですが。88年がパンクのまっただ中と思える見識にあきれかえるのですよ)

 と、波乱の幕開け(!?)となった2007年も「勝手に、言いたい放題」で行きたいと思っとります。



投稿者 hanasan : 00:32 | コメント (0)

2007年01月02日

新しい1年の始まり... ですか?

Theatre Brook 年末は27日に友人のバンド、シアター・ブルックのライヴを撮影。結局、これが撮影納めになった。いつも思うけど、彼らのライヴに感じる前向きなエネルギーやそれに応えるオーディエンスのパワーが好きで、それをどうやって伝えるかに神経を使う。といっても、それが理由でステージの上からオーディエンスと一緒にメンバーを撮影しようとするんだけど、なかなかいい瞬間をとらえられなくて苦労するのだ。いい迷惑なんだろうけど、メンバーだけではなく、スタッフもそれを快く受け入れてくれて、オーディエンスも撮影されることを喜んでくれているように感じることが多い。いいミュージシャンにはいいスタッフやいいオーディエンスがいつも一緒だなぁと思ってしまうんだが、その典型がシアター・ブルック。おそらく、いろんな意味で長いつきあいをしていくバンドだと思う。

 ヴォーカルのタイジが「反逆のロックや!」といったことをステージで口にしていたんだが、ステージで話をするタイジはどこかでいつももどかしい。ホントはもっといろいろなことを整理して話をしたいんだろうが、堰を切ったようにいろいろな想いがそのまま出てくるといった感じかな。ただ、それが歌になったときに、「伝わる」のがミュージシャンであるゆえんだと思う。

 29日にはスマッシング・マグとフジ・ロッカーズのスタッフと忘年会で飲んだくれ、大晦日はひさびさに国に帰るエチオピア・レストラン、クイーンシバの店主夫婦と食事。その後、一緒にバード・ソング・カフェで年越しとなった。年越しそばを食べて、カウントダウン、そして、雑煮を食して家路に向かった。今、エチオピアはソマリアの反政府勢力に対して軍事介入をしているんだが、彼は国に帰って大丈夫なんだろうか... と、どこかで心配しているんだが、本人はなんとも思っていない様子。まぁ、そんなものなんだろう。

 これで1年が終わって、新しい年になった... はずなんだが、いつの頃からか、そんな感慨も抱かなくなった。なぜなんだろう。すでに年賀状も書かなくなって久しい。02年に自分にとって大きな変化があり、その年に自分の祖母が105歳で大往生して、友人のジョー・ストラマーが亡くなったことをいいわけにしていたんだが、それが今も続いている。一時は300枚ほどの年賀状を送り、毎年、年の初めに(いや、年の終わりか?)いろいろなことに思いをはせながら、小さなはがきにぎっしりと文字を敷き詰めたメッセージを発信していたんだが、今はそれもなくなった。面白いことに、それまでは何百枚もの年賀状がうちにも届けられていたんだが、今ではそれもほんのわずかになってしまった。それでも送ってくれる人たちには、やはり感謝しているし、レスを返さなくてはと思う。

素晴らしき哉、人生 そんなことを考えながら、羽田に向かっているとき、今年になって最初の電話がニューヨークの友人から入ってきた。SMSの彼のメッセージに応えて、長いレスを返すのが面倒なので、「全然調子がよくない」といった旨のメールを送ったら「どうしたんだよ」と心配顔で尋ねてくれるのだ。持つべきものは友だと思う。大好きな映画『素晴らしき哉、人生』のラスト・シーンで、守護神、クラレンスが残したメッセージそのままで、自分にとってなによりも重要なのは友人であり、仲間なんだという気持ちはずっと以前から変わってはいない。彼は一度、ゆっくりとニューヨークに来てのんびりすればいいじゃないかと言ってくれるんだが、ネットの仕事をしていると休む時間も暇もなくなってしまうのだ。まるでコンピュータの奴隷のような日々に、どこかで決着を付けないとぼろぼろになってしまいそうな気もする。一方で、1日、わずか7~8000人とはいえ、Smashing Magにやってきてくれる人がいて、このサイトだって1日に1000人ぐらいは遊びに来てくれて、自分の言葉に耳を傾けてくれる。伝えなければいけないことがあり、伝えられなければいけない人や物がある。それがある限り、自分が止めることはできないと思うのだ。

 ただ、今年こそはなんとか金をかけてでも更新の方法を変えようと考えている。できるだけ、ストレスをなくして、もっと効率よく情報を発信できる方法を生み出していかなければいけない。そうすることで、さらにいろいろなものをいい形で発信できるはずだ。

 さて、新しい年になにを思う? もちろん、ここにやってくる人たち、友人、仲間、そして、どこかでつながっている人たちに実りあるすばらしい1年が訪れることを祈っているのは当然のこと。でも、目の前にあるのは、残念ながら、バラ色の未来ではなく、イバラの道なんだと思う。政治的な状況を見れば、どんどん悪くなっている。もう「想い」や「気持ち」ではなく、具体的に「行動」することで「意志」を明確に表現し、伝えていきながら、それを形にしなければ歯止めをすることはできないだろう。それはすでに目の前に見えていることなのだ。

 それでも、あの名作『素晴らしき哉、人生』を想い浮かべる自分がいる。この地球上の60数億人の一人でしかない自分ではあっても、自分はかけがいのない自分であるということをもう一度確認しようと思う。もし、自分がいなければ、世界はこうはなっていなかっただろうし、あなたがいなかったら、私はこうはなっていなかっただろう。あなたがいるから、自分がいる。そんなことを思う年の始まり。これからも「無垢に」人を愛し、音楽を愛し、地球を愛し、どこかで自分が愛されていることを感謝しながら、生きていこうと思う。あぁあ、なんとたわいのない年の始まりよ。



投稿者 hanasan : 12:01 | コメント (0)