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2009年08月16日

アナログ盤からiTunes

中山ラビ この前、かおりのことを書きながら、そこに登場した中山ラビのデビュー・アルバム、『私ってこんな』を聴きたくなって、またやることになってしまったんだが、ここ1〜2年、時間ができたらやっているのがアナログ盤をデジタル化する作業だ。

 要するに、便利さのせいでコンピュータで音楽を聴くことが多くなったのがここ数年。同時に、そこに入れた音楽をiPodで持ち歩きたいということから、のめり込んだのがこの作業だ。といって簡単ではなくて、以前はアナログのアルバムを持っていてもCDを買っていたんだが、当然のことながら、金がかかる。ボーナス・トラックが入っているとか、DVDがついてくるとか、そういったことをいいわけに、すでに持っているアルバムを何度買ってしまったか... 10枚や20枚では収まらないだろう。湯水のように金を持っていたら、それもできるんだろうが、毎日の生活に四苦八苦している身としては、それも難しい。加えて、好きでたまらないアルバムのなかにはCD化されていない「隠れた名作」がいっぱいあって、そうせざるを得ないという事情もあった。というので始めていったら、これが面白いのだ。

 方法はというと.... 自分の場合は、ずいぶん前に購入したCDレコーダーを利用している。まずはステレオのアナログ・プレイヤーから音楽用のCD-RWに落すのが第一段階。そのデータをコンピュータで読み取って、微調整するというやり方だ。使っているソフトは、長年愛用している『Roxio Toast』シリーズに同梱されているSpin Doctor。といっても、その前段階として、友人からのアドバイスで、アナログ盤は『レイカ・バランスウォッシャー33』で入念に汚れを落とす。傷のほとんどないアナログはこの作業をすることで、見違える(聞き違える?)ほどの音となり、下手をするとこうやって落とした方が市販のCDよりもよく聞こえることがある。それは気のせいかもしれないので、保障はしませんが。といっても、それは最近のことで、最初は普通にクリーナーで綺麗にしていた程度だが、それでも音は全然悪くないのだ。

Michael Smith 最初に手を付けたのはダブ・ポエットのマイケル・スミスによる名作で唯一のアルバム、『Mi C-Yaan Believe It(ミ・キャーン・ビリーヴ・イット)』。その世界では最も知られるリントン・クゥエシ・ジョンソンのプロデュースとデニス・ボーヴェルのバンドをバックに録音されて、アイランド・レコードから1982年に発表された作品だ。自分が知る限り、一度もCD化されたことはないと思うし、どこかで見たことがあるんだが、DJのジャイルス・ピーターソンが「CD化されていない名作」としてこのアルバムをあげていたのを覚えている。

 このアーティストに関してはこちらでわずかに情報を得ることができるんだが、政治活動家でもあった彼は、その先鋭的な姿勢から、1983年8月17日のデモの最中に殺されてということだ。当時、NMEで知ったんだが、彼が最後に口にしたのは「俺は自由な人間だ。どこをどう歩こうが、俺の自由だろう!」という言葉だったという。(それからちょうど26年目にこれを書いているのが奇遇ですな)

 何度かこのアルバムのCDを探そうとしたんだが、いまだに見つけたことはないし、amazonでチェックしてみると、1990年にアメリカで発売されたアナログがけっこうな値段で取引されているようだ。Wikipediaによると、このアルバムを発表した頃、ジョン・ピールのラジオ番組でセッションをしているということなので、いつかそのあたりも発表されるのかもしれないが、なによりも聴いていただきたいのはこのアルバムなのだ。

Kris Kristofferson & Rita Coolidge 日頃からジャンルというものには全く興味のかけらもなくて、「心に響くかどうか」だけで音楽を聴いているものだから、こんなアルバムが出てきたら、あまりののギャップに「なんでやねん」と思われるかもしれない。が、これもそんな作業を始めて真っ先に手がけた『Full Moon』というアルバム。今では映画俳優として有名になってしまったクリス・クリストファーソンがリタ・クーリッジと結婚したときに録音したベタベタのデュエット・アルバムで1973年に発表されている。一時期、レゲエ・デュエットのアルバムを企画したときに参考としたものなんだが、そのプロジェクトは形にならずじまいというのが残念でならない。ロバータ・フラックとピーボ・ブライソンのデュエット作、『Born to Love』やマーヴィン・ゲイとタミー・テレルの名作、『United』に匹敵する作品で、これは大学生時代からの愛聴盤だ。探してみると、同じ二人による『Breakaway』は容易に手に入るし、値段も安いんだが、出来は『Full Moon』の方が遙かに素晴らしい。実は、今年、オースティンに出かけたときに買ったアナログが、同じシリーズの最終作、『Natural Act』。それが1978年発表で、その翌年に離婚したとのこと。『Full Moon』と同じような二人の写真がジャケットを飾っているんだが、その表情が全てを物語っているといっていいだろう。どこかで二人がよそよそしいのだ。当然、最初の作品となった『Full Moon』が格段に素晴らしい。

林ヒロシ 当然ながら、海外のアーティストばかりではなく、日本人のアーティストのものもやっているんだが、「これはCD化されることはないだろう」と思っていたのに、今調べてみると、1993年にミディから発表されているのに驚かされた。アーティストは林ヒロシといって、ちょっと線の細い友部正人的なシンガー&ソングライター。アルバムは『とりわけ10月の風は』という作品で、自分の持っているのは、もちろん、オリジナルだ。まだ、インディなんて言葉がなかった1975年に、『自主制作盤』として発表されたもので、どこでどうしてこれを買うことになったのか全く覚えてはない。が、高田渡と親しくしていたらしく、ジャケット写真は彼の作品で、バックのミュージシャンに若き日の坂本龍一の名前が見える。と、そんなことよりも、歌がいいのだ。いわゆるフォークの『隠れた名盤』と言っていいだろう、大学生の頃によく聞いた宝物の1枚だ。

 たまたま、このミュージシャンはどうしているんだろうと思って調べてみると、なんと映画監督として著名な小林政広がこの人だったというのに驚かされた。今度チャンスがあったら、彼の作品も見てみよう。このアルバムに刻み込まれた音楽が、その映画の世界でどう展開しているのか... 実に興味深い。

 なお、調べてみると、CD化された『とりわけ10月の風は』に関していえば、ジャケットにオリジナルの素晴らしい写真が使用されていないのが実に残念。高田渡の見つめていた風景とここに封じ込められた歌がどこかでシンクロしているので、このCDを買いたいとは思わないなぁ、正直言って。しかも、「不適切な言葉」が4カ所カットされているらしい。自分にとってそれは歴史の改ざんに等しい醜悪な所業で、そんな作品がほしいと思ったことはない。

岡林信康 これは札幌に行ったときに4000円ぐらいで入手することになった、昔のビクター音楽産業から発表された岡林信康のメジャー・デビュー・アルバム、『岡林信康の世界 第一集』。実を言えば、まだ子供だった頃、頭をぶん殴られたような衝撃を受けた歌が2曲あって、それが彼の「手紙」と「チューリップのアップリケ」だった。音楽や歌を初めて真正面から意識したのがこの2曲で、ある意味、自分の人生を変えることになった曲であるようにも思う。が、「手紙」はURCからの岡林信康のデビュー・アルバム、『わたしを断罪せよ』で聴くことはできるんだが、「チューリップのアップリケ」は聴くことができなかった。いずれも、貧困や被差別部落の問題に絡んだ曲で、こういった状況が続いているのは「存在しない放送禁止」のおかげなんだろうと想像する。それが収録されているのがこの『岡林信康の世界 第一集』なんだが、どんな理由があるのか、これはCD化されてはない。というので、これをデジタル化したんだが、1〜2年前にCD化された1975年発表のベスト・アルバム、『大いなる遺産』に「チューリップのアップリケ」が収録されているとのこと。amazonでの解説によると、この曲のスタジオ・ヴァージョンはこのアルバムでしか聞けないらしい。結局はこれも注文してしまったんだが、ヴァージョンを気にするほど飽食していないので、これをきちんと聴けることだけで充分に満足なんですけどね。

 と、ここにあげたのはほんのわずかで、他にもいろいろあるんだが、基本的にレコードにしろ、CDにしろ、全てが限定盤だと思った方がいい。レコード会社なんぞ、採算が取れるかどうかどころか、利益でしかアルバム発売をしないもの。なにかの間違いで、とんでもなく『売れない』『名盤』が出てくることはあるんだが、そうならないことの方が多いのだ。だから、『聴きたい』のみならず、『なんだろう、これ?』と思える作品があったら、まずは手にしてしまうというのがレコード中毒者の性というもの。このところ、海外に行くと、数百円で買えるアナログをせっせと買い集めて、こうやってデジタル化しているんだが、それで発見した素晴らしい音楽は数知れない。今年はオースティンでカウボーイや、なぜかCDが手に入りにくいザ・マーシャル・タッカー・バンドのアルバムを買って、デジタル化している。おそらく、アナログ人口が少なくなったせいで、格安でアナログを買うことができるはず。もし、時間があったら、こんなことをやってみるのも手かもしれませんよ。



投稿者 hanasan : 01:28 | コメント (0)

2009年08月13日

心から愛する川村かおりへ

川村かおり 申し訳ない。結局、通夜にも告別式にも足を運ぶことができなかった。最後の別れというのが、どうも、受け入れられないのだ。

 その一方で、かおりが亡くなったというニュースを耳にして以来、なんだか自分の周りの空気の流れが止まったかのような感覚に幾度となく陥っている。そして、ひっきりなしに彼女の顔が頭に浮かぶのだ。あの翌日なんぞ、打ち合わせに出た渋谷で... 勘弁してほしいと思うほどの音の洪水に見舞われているあの街で、まるで『音』を感じることがなかった。なにやら目の前に広がっていたのは全てがミュートされたかのような世界。それは生まれて初めて目の前で飛び込み自殺を見たときの光景にどこかで似ていたように思う。全ての時間が止まって、自分だけがこの世から全く浮き上がってしまっているような、そんな感覚だ。

 結局、6月にロンドンから送ったメールへのレスがかおりからの最後の言葉になった。「ロンドンに来ると、いつもかおりのことを思い出すよ」と、そんなメールを送ったんだが、本音を言えば、まだかおりが生きていることを確かめたかったに過ぎない。いろいろな話を聞くと、おそらく、そのときにはかなり厳しい状態にあったんだろうと想像する。そのかおりから「ふふふ わすれないでね また行こうね。」というメールが戻ってきたときには、単純に彼女が生きていて良かったと思ったものだ。それと同時に、おそらく、来るべき時が近いのではないかとも思った。そのメールへの返信は「忘れるわけないさ。かおりはハートのクイーンよ」それが彼女への最後の言葉になってしまった。

川村かおり かおりと初めて出会った時のことは、今でもはっきりと覚えている。きっかけは、当時、懇意にしていたエコーズの辻君。彼が同じ時期にロンドンに来てスタジオで仕事をしているというので、オックスフォード・サーカスにあるエアー・スタジオを訪ねた時のことだった。部屋に入ると大きめのソファのような椅子の上で、まるで猫のように身体を丸くして寝ていたのがかおり。彼が手がけていたのが彼女のデビュー・アルバム、『ZOO』で、そのミキシングかなにかではなかったか。詳細はもう覚えてはいないんだが、いずれにせよ、この時点で彼女はまだデビューしていなかったように思う。

 当時、英国に置かれた日本の高校の分校で学んでいたのがかおりで、頻繁にロンドンへの取材を繰り返していたのが筆者。そんなこともあり、あの出会いがきっかけで、ロンドンへ行くと、必ずといっていいほど彼女と顔を合わせるようになっていた。かおりを誘い出してメシを食ったり、ライヴを見に行ったり... 一番覚えているのはロニー・スコッツというジャズ・クラブでアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズを見たことかなぁ。メンバー・カードを持っているおかげで、ウイークデーにはわずか1ポンドで入れるというので連れていったんだが、あのときのジャズにかおりが衝撃を受けていたなんて... ずいぶんと後に本人から話を聞くまでは全く知らなかった。

中山ラビ かおりが日本に帰ってきてからも、時折会ってメシを食ったり... という感じだった。頻繁に会うことはなかったんだが、いつも思い出したように、顔を合わせていたものだ。ギャズ・メイオールとトロージャンズが来日したときには、一緒にライヴを見に行って、メンバーのバスに乗り込んで... ギャズを初めとしてかおりを目にしたみんながいきなり彼女にアプローチしだしたのが面白かった。小田原に住んでいた頃は、仲間とやる鍋やカレー・パーティに誘ったりもしたし、あいつはひとりで車を飛ばして東京からやって来たものだ。友部正人のライヴで偶然会って、「実は大好きなんだよ」って、かおりの、また違った側面を知らされたりもしたこともある。そういえば、一時、ベイFMで番組をやっていた頃のこと、けっこう危険な日本のフォークやロックを流したときの同録テープをあげたとき、中山ラビの名曲「13円50銭」に頭をぶん殴られたと言われたことも懐かしい。

 ラビのデビュー・アルバム、『私ってこんな』に収録されているあの曲で歌われているのは関東大震災の直後に虐殺された韓国朝鮮人の話だった。すでに、こんなことを知る人は少ないだろう、あの混乱のなかで彼らが蜂起するという噂が流れて始まったのが、自警団と呼ばれる人を中心とした『韓国朝鮮人狩り』だと言われている。大陸からやって来た(連れてこられた)第一世代は韓国語独特の訛りから、濁音をうまく発音できないというので、13円50銭を「ちさんえんこちせん」としか言えなかったというのだ。だからというので、それらしき人を見つけるとその言葉を語らせて、日本人かどうかを判断。その結果、数多くの韓国朝鮮人が殺されたという。あのときにはどさくさに紛れて数多くのリベラルな知識人や活動家も殺されていて、そんな時代を歌にしているのだが、ロシア系ハーフとして日本で生きてきた彼女は、人種差別や理不尽な暴力に対してきわめて敏感ではなかったんだろうかと思う。

 それだけではなかった。かおりは「正しくない」ことに対して、直感で行動する女の子だった。多くの人は知らないだろうが、イラクで日本人が人質になったとき、渋谷ハチ公前で救出をアピールする集まりに来てくれないかと連絡すると、ギターを持って車で乗り付けてきたなんてこともあった。といっても、来た時間があまりに遅くて、結局は何もできなかったんだけど。どこまでもまっすぐに「起きていること」に向かい合うタイプといっていいだろう。ナイーヴなアプローチではあったかもしれないが、社会の不正に対して彼女が語るとき、もどかしい言葉の裏から顔を覗かせるのは弱者に対する優しいまなざしだった。おそらく、それが死ぬ間際まで続いていたんだと思う。

Warren Zevon 巻頭の写真は昨年11月、渋谷のクラブエイジアで、彼女自身がオーガナイズしていたイヴェントでのもの。あの写真の直後、彼女が撮影しているこちらに気付いて、ニコッと笑っているんだが、その瞬間に、もう彼女の撮影をするのは止めようと思った。なぜか? 死ぬとわかっている友人を撮り続ける勇気がなかったのかもしれない。正直言って、自分はそんなにタフじゃない。

 そのかおりに死が迫っていることで思い出したのは、数年前に亡くなったウォーレン・ジヴォンだった。が、結局、そのことも彼女には話せなかった。おそらく、本人には人生の幕が下りようとしているのがわかっているはずなのに、それに追い打ちをかけるようなことなんてできるわけがないじゃないか。これはかおりと同じように自らの死が迫っていることを知ったジヴォンが、最後の作品を録音する様子をドキュメントしたもの。『Keep Me in Your Heart』(僕のことを心にとどめておいてくれ)というタイトルがかおりから受け取った最後のメッセージと同じで、彼女もまたあれから最後の作品を制作したことになる。それが『K』と呼ばれるアルバムであり、『MY SWEET HOME ~君に伝えたいこと~』という本なんだろう。

 でも、彼女はけっしてネガティヴにはならなかった。彼女のメールにはこんなことが書かれてあったものだ。

「そうそう、偶然はないのよ。廻べくして廻ってるのよ、きっとね。」

 と、ありのままを受け入れて生きた彼女が天寿を全うしたと思うことにしている。38歳という年齢を若すぎるというのは簡単だ。が、人の生はその長さではない。どこかで、あいつにはまたきっと会えると思っているんだが、こうやって、あの日以来、幾度も書き直しながら、この文章に向かい合って、やっとかおりの死を受け入れられたのではないかと思う。気がつけば、あの日からすでに2週間以上が過ぎている。

 実は、今年のフジロックで仕事をしながら、「かおりは来ないのかなぁ」なんて思っていた。おそらく、最後の年になるだろうから、無理をしても来てくれないかなぁ... なんぞと都合のいいことを考えていたんだが、そのとき、彼女は病床で最後の闘いをしていたことになる。そして、フジロックが終わって東京に戻ってきて、最初に届いたニュースがかおりの死だった。しかも、最終日に前のマネージャーとかおりのことを話していたというのに... そんな流れも、彼女の言うように、廻るべくして廻ってきたものなんだろう。

 安らかに眠ってください。かおりはいつも私のハートのクイーンです。また、あの世で会おう。お前のことは絶対に忘れないよ。



投稿者 hanasan : 16:54 | コメント (0)