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2009年08月13日

心から愛する川村かおりへ

川村かおり 申し訳ない。結局、通夜にも告別式にも足を運ぶことができなかった。最後の別れというのが、どうも、受け入れられないのだ。

 その一方で、かおりが亡くなったというニュースを耳にして以来、なんだか自分の周りの空気の流れが止まったかのような感覚に幾度となく陥っている。そして、ひっきりなしに彼女の顔が頭に浮かぶのだ。あの翌日なんぞ、打ち合わせに出た渋谷で... 勘弁してほしいと思うほどの音の洪水に見舞われているあの街で、まるで『音』を感じることがなかった。なにやら目の前に広がっていたのは全てがミュートされたかのような世界。それは生まれて初めて目の前で飛び込み自殺を見たときの光景にどこかで似ていたように思う。全ての時間が止まって、自分だけがこの世から全く浮き上がってしまっているような、そんな感覚だ。

 結局、6月にロンドンから送ったメールへのレスがかおりからの最後の言葉になった。「ロンドンに来ると、いつもかおりのことを思い出すよ」と、そんなメールを送ったんだが、本音を言えば、まだかおりが生きていることを確かめたかったに過ぎない。いろいろな話を聞くと、おそらく、そのときにはかなり厳しい状態にあったんだろうと想像する。そのかおりから「ふふふ わすれないでね また行こうね。」というメールが戻ってきたときには、単純に彼女が生きていて良かったと思ったものだ。それと同時に、おそらく、来るべき時が近いのではないかとも思った。そのメールへの返信は「忘れるわけないさ。かおりはハートのクイーンよ」それが彼女への最後の言葉になってしまった。

川村かおり かおりと初めて出会った時のことは、今でもはっきりと覚えている。きっかけは、当時、懇意にしていたエコーズの辻君。彼が同じ時期にロンドンに来てスタジオで仕事をしているというので、オックスフォード・サーカスにあるエアー・スタジオを訪ねた時のことだった。部屋に入ると大きめのソファのような椅子の上で、まるで猫のように身体を丸くして寝ていたのがかおり。彼が手がけていたのが彼女のデビュー・アルバム、『ZOO』で、そのミキシングかなにかではなかったか。詳細はもう覚えてはいないんだが、いずれにせよ、この時点で彼女はまだデビューしていなかったように思う。

 当時、英国に置かれた日本の高校の分校で学んでいたのがかおりで、頻繁にロンドンへの取材を繰り返していたのが筆者。そんなこともあり、あの出会いがきっかけで、ロンドンへ行くと、必ずといっていいほど彼女と顔を合わせるようになっていた。かおりを誘い出してメシを食ったり、ライヴを見に行ったり... 一番覚えているのはロニー・スコッツというジャズ・クラブでアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズを見たことかなぁ。メンバー・カードを持っているおかげで、ウイークデーにはわずか1ポンドで入れるというので連れていったんだが、あのときのジャズにかおりが衝撃を受けていたなんて... ずいぶんと後に本人から話を聞くまでは全く知らなかった。

中山ラビ かおりが日本に帰ってきてからも、時折会ってメシを食ったり... という感じだった。頻繁に会うことはなかったんだが、いつも思い出したように、顔を合わせていたものだ。ギャズ・メイオールとトロージャンズが来日したときには、一緒にライヴを見に行って、メンバーのバスに乗り込んで... ギャズを初めとしてかおりを目にしたみんながいきなり彼女にアプローチしだしたのが面白かった。小田原に住んでいた頃は、仲間とやる鍋やカレー・パーティに誘ったりもしたし、あいつはひとりで車を飛ばして東京からやって来たものだ。友部正人のライヴで偶然会って、「実は大好きなんだよ」って、かおりの、また違った側面を知らされたりもしたこともある。そういえば、一時、ベイFMで番組をやっていた頃のこと、けっこう危険な日本のフォークやロックを流したときの同録テープをあげたとき、中山ラビの名曲「13円50銭」に頭をぶん殴られたと言われたことも懐かしい。

 ラビのデビュー・アルバム、『私ってこんな』に収録されているあの曲で歌われているのは関東大震災の直後に虐殺された韓国朝鮮人の話だった。すでに、こんなことを知る人は少ないだろう、あの混乱のなかで彼らが蜂起するという噂が流れて始まったのが、自警団と呼ばれる人を中心とした『韓国朝鮮人狩り』だと言われている。大陸からやって来た(連れてこられた)第一世代は韓国語独特の訛りから、濁音をうまく発音できないというので、13円50銭を「ちさんえんこちせん」としか言えなかったというのだ。だからというので、それらしき人を見つけるとその言葉を語らせて、日本人かどうかを判断。その結果、数多くの韓国朝鮮人が殺されたという。あのときにはどさくさに紛れて数多くのリベラルな知識人や活動家も殺されていて、そんな時代を歌にしているのだが、ロシア系ハーフとして日本で生きてきた彼女は、人種差別や理不尽な暴力に対してきわめて敏感ではなかったんだろうかと思う。

 それだけではなかった。かおりは「正しくない」ことに対して、直感で行動する女の子だった。多くの人は知らないだろうが、イラクで日本人が人質になったとき、渋谷ハチ公前で救出をアピールする集まりに来てくれないかと連絡すると、ギターを持って車で乗り付けてきたなんてこともあった。といっても、来た時間があまりに遅くて、結局は何もできなかったんだけど。どこまでもまっすぐに「起きていること」に向かい合うタイプといっていいだろう。ナイーヴなアプローチではあったかもしれないが、社会の不正に対して彼女が語るとき、もどかしい言葉の裏から顔を覗かせるのは弱者に対する優しいまなざしだった。おそらく、それが死ぬ間際まで続いていたんだと思う。

Warren Zevon 巻頭の写真は昨年11月、渋谷のクラブエイジアで、彼女自身がオーガナイズしていたイヴェントでのもの。あの写真の直後、彼女が撮影しているこちらに気付いて、ニコッと笑っているんだが、その瞬間に、もう彼女の撮影をするのは止めようと思った。なぜか? 死ぬとわかっている友人を撮り続ける勇気がなかったのかもしれない。正直言って、自分はそんなにタフじゃない。

 そのかおりに死が迫っていることで思い出したのは、数年前に亡くなったウォーレン・ジヴォンだった。が、結局、そのことも彼女には話せなかった。おそらく、本人には人生の幕が下りようとしているのがわかっているはずなのに、それに追い打ちをかけるようなことなんてできるわけがないじゃないか。これはかおりと同じように自らの死が迫っていることを知ったジヴォンが、最後の作品を録音する様子をドキュメントしたもの。『Keep Me in Your Heart』(僕のことを心にとどめておいてくれ)というタイトルがかおりから受け取った最後のメッセージと同じで、彼女もまたあれから最後の作品を制作したことになる。それが『K』と呼ばれるアルバムであり、『MY SWEET HOME ~君に伝えたいこと~』という本なんだろう。

 でも、彼女はけっしてネガティヴにはならなかった。彼女のメールにはこんなことが書かれてあったものだ。

「そうそう、偶然はないのよ。廻べくして廻ってるのよ、きっとね。」

 と、ありのままを受け入れて生きた彼女が天寿を全うしたと思うことにしている。38歳という年齢を若すぎるというのは簡単だ。が、人の生はその長さではない。どこかで、あいつにはまたきっと会えると思っているんだが、こうやって、あの日以来、幾度も書き直しながら、この文章に向かい合って、やっとかおりの死を受け入れられたのではないかと思う。気がつけば、あの日からすでに2週間以上が過ぎている。

 実は、今年のフジロックで仕事をしながら、「かおりは来ないのかなぁ」なんて思っていた。おそらく、最後の年になるだろうから、無理をしても来てくれないかなぁ... なんぞと都合のいいことを考えていたんだが、そのとき、彼女は病床で最後の闘いをしていたことになる。そして、フジロックが終わって東京に戻ってきて、最初に届いたニュースがかおりの死だった。しかも、最終日に前のマネージャーとかおりのことを話していたというのに... そんな流れも、彼女の言うように、廻るべくして廻ってきたものなんだろう。

 安らかに眠ってください。かおりはいつも私のハートのクイーンです。また、あの世で会おう。お前のことは絶対に忘れないよ。



投稿者 hanasan : 2009年08月13日 16:54

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