Billy Bragg-Brewing Up With Billy Bragg

 あれは初めてイギリスに渡った80年の春だった。片田舎のパブで無名のパンク・バンドのギグがあった時、そこで出会った16歳の少年たちの言った言棄が、今でも頭から離れない。「パンクはただの音楽じゃない。それは俺たちのムーヴメントなんだよ。」そこには自分たちの文化を作り上げ、現実に世界を動かしているという彼らの自信かあったような気がするのだ。

 それから2年のイギリス浮遊生活当時、そこで触れたのは、そんな若者たちが生んだヴィヴィッドなムーヴメントの成果だった。彼らの自信は社会の現場にどんどん飛び出しては、その勢力を強めていったのだ。例えば、反核、失業間題、人粗差別、反ファッシズム、そんなイベントの周りには必ず音楽かあり、パンク、あるいはそれ風の若者たちかたむろしていた。

 もちろん、音楽に対して政治性を与える行為を彼らが必然として要求したわけてはないが、パンクが現実の世界に「クソッタレ」と言った時、そこには政治が、伝統が、そして、権力があった。それだけのことなのだが、そんな彼らのパワーか僕に書かせるという衝動を与えてくれたのだ。特に81年10月のハイドパーク.反核団体CNDか開催した史上最大のデモだ。集まってきたのは無数のl0代、そして20代、チャリティをしたジャム、ビート。旧世代が予想もしなかった迫力て彼らの存在感を感じていた。その事件か僕をフリーライターにした原点であり、音楽を中心としたイギリスの若者文花は、いつも書く衝動を与えてくれるカンフル剤だった。だからこそ、イキリスを取材し、そんな音楽、文化、若者たちをレポートするようになったのだ。

が、一昨年の暮れ頃からだろうか、そんな衝動が消え、自分目身の書くパワーか衰えたような気もした。無論、職業的に書くことの慣れがその原因だったのかもしれない。でも、正直なところ、イギリスの音楽にそれほどのエネルギーが感じられなかったのだ。ヒットチャートを見ればいい。「えっ?バンク?そんなの知らないよ」そうとでも言いたげな退屈なポップスの氾濫。パンクのユニフォームを着たバントはあまりにもネガティヴで卑屈だった。ラジオからは無意味なラヴソングでお茶を濁したようなものばかりか流れていた。友人のNME編集長、ニール・スペンサーやライターたち、彼らと話すといつも出てくるのが、「この頃のポッフスは最悪だよ。」そんなグチばかりだった。確かにフランキー・ゴーズ・トウ・ハリウッドは凄かった。ラディカルなバンド、スペシャルAKA、UB40、ポール・ウエラーらの人気は根強い。でも、若者たちを身体の内から揺り動かすような、そんななにかが欠けていたのだ。

そんな時に見たのかビリーだった。そして、彼のステージと人気に、その欠けているなにかがあり、それが大きく成長しはじめているように思えたのだ。

 場所はロンドンのビクトリア・パレス・シアター。ハング・ワングフォード・バンドとフランク・チキンズと組んでのUKツアー最終日。トリのビリーか姿を見せると会場の雰囲気が一変した。満員の客席から聴衆がステージ前に走ってゆく。彼のエレキギターか大音響でかさ鳴らされる。と同時に若者たちは踊り、叫ぶようにして歌いだしたのだ。ステージにいるのはビリーひとり、単にシンガー・ソングライターとは呼びきれない。彼が演奏しているのは給れもないロック。しかも、若者たちが熱狂するのは「アイランド・オブ・ノー・リターン」やLP未収録の「Which Side Are You 0n」。反戦や今イギリスで大きな政治間題となっている炭坑労働者ストを支援した曲だ。そんなストレートなメッセージに反応を見せる若者たちの目か輝いている。それは、あのパンク全盛時のクラッシュが80年代に建ってきた、そんな光責に映ったのだ。

 その2日後の10月29日、ビリーに会った。BBCの朝番組出演のため、そのスタジオで顔合わせ。収録か終わると、次の番組か待つキャビトルラジオへ。オンポロ車で市内を走り抜けている時、「この車でツアーしてんだよ、もう何万マイル走ったかわかんないけど、どこへでも行ったよ」と話しかげてくれる。早朝7時から彼につき合って、インタピユーかできたのは昼のl時。日本へ帰らなければいけない僕のために、メシも喰わずにに時間を用意してくれたのが嬉しかった。

「実は、昔、戦車を操縦してたことがあんだよね。理由はいろいろあんだけど、その3〜4年前、僕はあるものの一部だったんだよ。本気で信じてたさ、それか世界を変えるって。でも、そんなことはなにも起こらなかった。失望したよ。だからさ、軍隊に入ったのは。なにもできなくなって…… 脱け殻のように感じたんだ。なんとかしてそんな状況から抜け出なけりゃ、そう思ったんだよ。それが理由さ。自分白身を強力にふるい立たせて、なにかホジティヴなことをさせる、そんな衝動が欲しかった」

 インタビューはそんなところからスタートした。もちろん、「あるもの」とはパンクだ。57年生まれの彼が学校を卒業して職を転々としていた頃、ダムドのレコードを聴いたのがきっかけだ。「ここにはなにかがある」そう思ってレインボーで開かれた白い暴動」コンサートを見に行った。その時のクラッシュが人生を変えたのだ。 「あれは完全な革命だったよ。なにか本当にギラギラと輝いている光が目の前に現われたような、そんな気がして、もうこれしかないって思ったんだよ。」

 そして、77年、リフラフというパンドを結成。わずかなシングルをリリースしたが、80年には解教している。一応の理由は経済的な問題のため。が、実はパンクそのものに失望したためだったこそれを乗り越えるために軍段へ入隊。 90日間で放り出されてしまう。

「もし、僕がずっとパンクの側に立っていたら、向こう側の人間を認識も理解もできなかっただろう。でも、今は違う。はっきり言えるんだよ。彼らは間違っているつて。」

 その経験でイギリスの現実を見たと言うのだ。兵士のほとんどは貧しい北イングランドの出身で、核兵器を信じているバカもいない。誰もが生残れないのを美感しているという事実。それが再び彼に「はじめてパンクに接した時の噛みつきたくなるような感覚を呼ぴもどした」と言う。

「歌い出した理由はいっぱいあるよ。ますは欲求不満さ。あの頃思ったんだ。僕の聴きたかったパンドはいったいどこへ消えちまったんだって。残ってたのは金を儲けることしか考えていないスパンダー・パレエとか、そんなのばかりじやないか。畜生!こうなったら自分でやるっさやない。誰も知らなくても、耳を傾けなくても、そんなことはどうでもいい。黙ってたら気が狂っちまう。」

死んでしまったパンク、狂気の軍隊から生残ったビリーはこうして歌い始めた。エレキギターを手にしたのは、「もともと、ロックを演りたかったし、小さなクラブで好きなものだけ集まって聴くなんてナンセンスだ。それに詩は絶対に重要なものだし、ひとりなのはそのせいなんだよ。それに経済的だろ?」

 ひとりでも多くの人に聴かせたいくいう彼のポリシーは完璧だ。この1年に消化したギグの数は250本。名もないバブ回りを重ね、デヴィッド・ギルモア、ミート・ローフ、チャック・ベリーと、まるでビリーとは音楽性のかみ合わないアーティストの前座も務めた。片田舎からファン・レターか来たからといっては出てゆこうとする。炭坑労働者スト、反核などのベネフィットへも必すといっていいほど姿を見せる。昨年、NMEやメロティメイカーがストをした時など、彼の方から支援チャリティをしたいという連絡をしたほどだ。

 そんな彼の姿勢かファースト・アルパム『Llfe's A Riot With Spy VS.Spy』の大ヒットを生んだ。83年2月に2トラック、たったの3日間で録音された45回転7曲入リ。ディストリビユーションの問題から、出たのは11月だが、わずか150ポンド(約45,000円)のフロモーション費で5万枚をセールス。インディペンデント・チャートNolを6週にわたってキープした。しかも、彼はl度もシングルを出していない。いわば前代未間の事件を起こしたわけだ。

「だってシングルは高いじやないか。1.60ポンドで2曲がふつうだろ?もっと聴いて欲しいし、あのアルパムの値段は2.99ホンド。多くの曲を安く聴けるって方がいいに決まってるだろ?それに僕の仕事は歌うことで、ショービジネスじゃない。ビデオになんか興味もないしね。」

 過剰競争気味のビデオ製作がレコード代を上げ、新しいバンドのチャンスを潰していると言うのだ。そんな人柄かジャーナリストの人気を集め、有能なスタッフを集めているのだろう。マネージャーはビンクフロイドを育て、ストーンズのハイドパーク・コンサートを企画したピート・ジェナー、そして、ローディはロック番組の司会をするアンディ・力一ショウとビカイチだ。

 その人柄や同時代の若者の恋や怒リをそのまま歌にしているあたりがポール・ウエラーに似ているとも言われる。また、詩の素晴らしさはエルヴィス・コステロを連想させ、ステージでのノリはクラッシユ。イギリスでワンマン・クラッシュと呼ばれるのも充分に領けるのだ。

「コックニー訛りだし、ポールとはよく比較されるね。実際に影響を受けてるから、しかたないよ。でも、彼には僕みたいな毒のある詩は書けないさ、シリアスすぎて。他にもコステロやクラッシユと比較されたり、80年代のディランなんて言われるけど、気にはしていない。ただ、僕のルーツはそんな人たちからもっと逆のばっていくんだ。ストーンズ、プレスリー、ウッディ・ガスリー、レッドベリー、特にジョン・リー・フッカーか最高さ。でも、彼らと同じになるつもりはさらさらないけどね。」

 が、そんな業界の飾り文句は、ビリーの音楽性だけではなく、若者への直接的な影響力からきているのだ。実際、すでに若者の間でピリーの人気はウナギ昇り。また、その現象は、パンクを越える新しいムーヴメントの萌芽さえ感じさせている。無論、彼かデビッド・ポウイのようなスターになるとは思えないが、80年代の若者を大きく変えるなにかとなることは問違いない。今は、それがどんな形で現われるのか、それを待っていたい、そう思っている。

 で、このアルパムがリリースされたのは昨年10月。どれほど売れたのかなんてのを仰々しく書くのにはなんの意味もないけど、参考までに書くと、NMEのナショナル・チャートで10位までつけている。尚、今回はインディペンデント・チャートに登場していないのを気にする人がいるかもしれないが、もちろん、このアルパムはインディペンデントのGo DIscsからのリリース。ただ、ディストリビューションはクリサリスが担当しているので、ビリーがインディペンデント・チャートには入れないように各誌に伝えたということだ。そのあたり、ヴァージンをディストリビューションに使いながらインディペンデント・チャートに顔を出すスミスとはちと違うようだ。本人は「別に彼らを非難しているんじゃないけど、なんとなくウソをついてるみたいで」と語っている。

 アルパムの内容だか、これについては本人からのコメントをとっているのて、これを参考にしてくれればと思っている。「SideI@はこの国で起きている右翼のメディア支配に間しての歌。Aはどんな愛でも、そこにはいつも恐怖がつきまとってるってとこかな。Bはどれほど愛し合っていても、他のものへの誘惑は断ち切れない人問の性をテーマにしてるんだ。と言っても、簡単には説明できないけど。Cは女の子と車(笑)。Dでは僕が昔、本当に愛した女の子のこと。実はロマンチツクなんだよ、(笑)。ラストのEは、もちろん、フォークランド戦争。でも、英雄になった兵士ではなくて、地べたを這いずりまわっている普通の人たち。そして、その裏にある事実さ。自分の国がアルゼンチンに売った武器で殺されてゆくパカらしさ、そんなところがテーマだよ。Side‐2@はただのラヴソングだけど、Aは戦争のファンタジーを持って育った子供たちのことさ。親たちは昔の戦争で偉大なことをしたんだって、みんなを引き込もうとしているけど、それていいのかいって内容。Bは愛と責任、セックス、そのあたりで。Cは、愛の力は物体も動かしてしまうほど強いんだって(笑)。ちょっと翔びすぎてんね。で、ラストはアダムとイヴの話をもとにいろんなものを知つてゆくブロセスを歌つてんだよ。と、こんなに簡単な説明では不充分だろうけど、訳詞をじっくり読んで彼の言わんとしていることを理解していただけると幸いである。

 尚、ビリーとのインタピューは約l時間。全てを雑誌に発表するのは不可能である。もし、このレコードを大好きになって、ビリーをもっと知りたいという人がいたら、下記までコビー代と送料込みの実費1,000円を送っていただければ、直接日本語訳したものを郵送いたします。

連絡先〒106東京都港区南麻布4−7‐12KMハウスl‐Aスマッシユ内
花房浩一

これは執筆された84年のことで、今では不可能です。

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