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「おい、一緒にアメリカ、行かんか? ちょっと助けてほしいんだ」 すでに業界で最も信頼できる人物として、仕事を越えたつきあいとなっていたFuji Rockの大将、日高氏にそう言われたのはいつだったろう。なんでもアメリカのブッキング・エイジェント(コンサートのスケジュールを切ったりしている、日本的な感覚でいえばマネージメント・オフィスのようなもの)を訪ねてまわるのに、通訳をしてくれないかというのだ。 といっても、彼は英語を理解できるし、話すこともできる。「なんで?」と尋ねると、「いやぁ、全然わからないことにした方がいいときもあるし、詳細に関して助けがほしいと思うときもあるから..」とか、なんとか、そんなことを言われたような気がする。そうやって、男二人のアメリカ行きが実現したのは86年ではなかったか。 まずは、ロスに渡って、当時ジ・アンタッチャブルズのマネージャーをしていた友人宅に居候。この時には、セックス・ピストルズのドキュメンタリー映画『ロックンロール・スインドル』を撮影&監督したジュリアン・テンプルと一緒にサンセット・ブルヴァードの最悪な寿司バーで食事したなんてこともあったんだが、この時のなによりの目的はフランク・ザッパと会うことだった。 なんでも、それまで何度も何度もザッパの下に連絡を取り、来日交渉を重ねていたのが大将。ビジネスではなく、なによりも彼を来日させたいという彼の気持ちが、電話やテレックス(当時は、まだテレックスが主流だった)ではなく、面と向かって説得するという方法を採ったわけだ。 もちろん、大将は必死だった。そして、彼の気持ちをザッパに伝えるために僕自身、必死になっていた。なぜなら、大将が金儲けのためにザッパを招聘しようとしているのでないことは重々承知しているからだ。それは彼とのつきあいでわかっていたし、当時の日本のロック・マーケットを考えてもざっぱで儲けるのは不可能だろう。 が、それでもザッパは首を縦には振らなかった... というよりは、とんでもない条件を出してきたわけだ。具体的な金額は覚えてはいないけど、ほとんど「冗談でしょ?」というほどのもの。ただ、ザッパはこうも続けていた。 「その金額をもらっても、僕には一銭の儲けもないし、儲けようとも思ってはいないんだよ。僕がライヴをするには、最低一ヶ月リハーサルを積まなければいけない。会場を借りきってミュージシャンとPA、照明スタッフを拘束して、それでやっとライヴにすることができる。その経費を考えたら、最低でもそんなお金が必要なんだよ」 当時も今も、僕はザッパの音楽をほとんど知らない。でも、ライヴに対する彼の完全主義者ぶりはこれで充分理解できた。 「彼とインタヴューしたら、原稿代にでもなるだろうから、やっておけば...」 という大将のすすめで、この時、ザッパといろんな話をしている。といっても、音楽のことはほとんど話していなくて、彼がこの時、なにをしようとしていたのか、なにを考えていたのか... そういったことを中心に話している。 それから後、僕が翻訳した『音楽は世界を変える』という本に、ザッパの反検閲運動への積極的な活動が書かれてあったのだが、この時の会話で知ったのは、彼にとって政治的な行動こそが関心の中心であったこと。それが大きな記憶として残っている。 あれから数年後、実は、今では兄弟のようになってしまったイギリスの友人がザッパと家族ぐるみでつきあっていたことを知ることになる。そして、その友人の結婚式で話をしたザッパ夫人から聞いた話によると、実は、僕と大将が彼と会ったとき、すでに彼は死が間近に迫っていることを知っていたという。それでも、彼はテレビを使った政治的な問題へのアプローチを懸命に話していたのはなぜか... 時にザッパの写真を見ながら、そんなことを考えてしまうのだ。 あの時のインタヴューは宝島という雑誌とミュージック・マガジンという雑誌に書いている。おそらく、どこかにデータが残っていると思うので、近くINTERVIEWセクションにアップしてみようと思う。 2001年1月15日記す。 |
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